定奉行であり、神保佐渡は大目付《おおめつけ》であった閲歴を持つ人たちである。下々の役人のようにいばらない。奉行としての威厳を失わない程度で、砕けた物の言いようもすれば、笑いもする。徒士目付からすでに三人の庄屋も聞いたであろうように、文久二年以来廃止同様の姿であった参覲交代を復活したい意志が幕府にある、将軍の上洛《じょうらく》は二度にも及んで沿道の宿々は難渋の聞こえもある、木曾は諸大名通行の難場《なんば》でもあるから地方の事情をきき取った上で奉行所の参考としたい、それには人馬|継立《つぎた》ての現状を腹蔵なく申し立てよというのが奉行の意向であった。
 その日の会見はあまり細目にわたらないようにとの徒士目付の注意もあって、平助は異国船渡来以後の諸大名諸公役の頻繁《ひんぱん》な往来が街道筋に及ぼした影響から、和宮様《かずのみやさま》の御通過、諸大名家族の帰国というふうに、次第に人馬徴発の激増して来たことをあるがままに述べ、宿駅の疲弊も、常備人馬補充の困難も、助郷《すけごう》勤め村や手助け村の人馬の不参も、いずれも過度な人馬徴発の結果であることを述べた末に言った。
「恐れながら申し上げます。昨年三月より七月へかけ、公方様《くぼうさま》の還御《かんぎょ》にあたりまして、木曾街道の方にも諸家様のおびただしい御通行がございました。何分にも毎日のことで、お継立ても行き届かず、それを心配いたしまして木曾十一宿のものが定助郷《じょうすけごう》の嘆願に当お役所へ罷《まか》り出ました。問屋四名、年寄役一名、都合五名のものが総代として出たような次第でございます。その節、定助郷はお許しがなく、本年二月から六か月の間、当分助郷を申し付けるとのことで、あの五名のものも帰村いたしました。もはやその期日も残りすくなでございますし、なんとかその辺のことも御配慮に預かりませんと、またまた元通り継立てに難渋することかと心配いたされます。」
「そういう注文も出ようかと思って、実は当方でも協議中であるぞ。」と都筑駿河は言った。
 その時、幸兵衛はまた、別の立場から木曾地方の付近にある助郷の組織を改良すべき時機に達したことを申し立てた。彼に言わせると、従来課役として公用藩用に役立って来たもの以外に、民間交通事業の見るべきものが追い追いと発達して来ている。伊那《いな》の中馬《ちゅうま》、木曾の牛、あんこ馬(駄馬《だ
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