そこいらはからっぽのようになっていた。松雲はただ一人《ひとり》黙然《もくねん》として、古い壁にかかる達磨《だるま》の画像の前にすわりつづけた。
三
なんとなく雲脚《くもあし》の早さを思わせるような諸大名諸公役の往来は、それからも続きに続いた。尾張藩主の通行ほど大がかりではないまでも、土州《としゅう》、雲州《うんしゅう》、讃州《さんしゅう》などの諸大名は西から。長崎奉行|永井岩之丞《ながいいわのじょう》の一行は東から。五月の半ばには、八百人の同勢を引き連れた肥後《ひご》の家老|長岡監物《ながおかけんもつ》の一行が江戸の方から上って来て、いずれも鉄砲持参で、一人ずつ腰弁当でこの街道を通った。
仙洞御所《せんとうごしょ》の出火のうわさ、その火は西陣《にしじん》までの町通りを焼き尽くして天明年度の大火よりも大変だといううわさが、京都方面から伝わって来たのもそのころだ。
この息苦しさの中で、年若な半蔵なぞが何物かを求めてやまないのにひきかえ、村の長老たちの願いとしていることは、結局現状の維持であった。黒船騒ぎ以来、諸大名の往来は激しく、伊那《いな》あたりから入り込んで来る
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