しい思いをして来た。京都の宿で患《わずら》いついた時は、書きにくい手紙を伏見屋の金兵衛にあてて、余分な路銀の心配までかけたこともある。もし無事に行脚《あんぎゃ》の修業を終わる日が来たら、村のためにも役に立とう、貧しい百姓の子供をも教えよう、そう考えて旅から帰って来た。周囲にある空気のあわただしさ。この動揺の中に僧侶《そうりょ》の身をうけて、どうして彼は村の幼く貧しいものを育てて行こうかとさえ思った。
「和尚さま。」
 と声をかけて裏口からはいって来たのは、日ごろ、寺へ出入りの洗濯婆《せんたくばあ》さんだ。腰に鎌《かま》をさし、※[#「くさかんむり/稾」、78−4]草履《わらぞうり》をはいて、男のような頑丈《がんじょう》な手をしている山家の女だ。
「お前さまはお留守居かなし。」
「そうさ。」
「おれは今まで畠《はたけ》にいたが、餅草《もちぐさ》どころじゃあらすか。きょうのお通りは正五《しょういつ》つ時《どき》だげな。殿様は下町の笹屋《ささや》の前まで馬に騎《の》っておいでで、それから御本陣までお歩行《ひろい》だげな。お前さまも出て見さっせれや。」
「まあ、わたしはお留守居だ。」
「こんな
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