のすそを下ろうとして、半蔵が周囲を見回した時は、黒船のもたらす影響はこの辺鄙《へんぴ》な木曾谷の中にまで深刻に入り込んで来ていた。ヨーロッパの新しい刺激を受けるたびに、今まで眠っていたものは目をさまし、一切がその価値を転倒し始めていた。急激に時世遅れになって行く古い武器がある。眼前に潰《つい》えて行く旧《ふる》くからの制度がある。下民百姓は言うに及ばず、上御一人《かみごいちにん》ですら、この驚くべき分解の作用をよそに、平静に暮らさるるとは思われないようになって来た。中世以来の異国の殻《から》もまだ脱ぎ切らないうちに、今また新しい黒船と戦わねばならない。半蔵は『静の岩屋』の中にのこった先師の言葉を繰り返して、測りがたい神の心を畏《おそ》れた。
底本:「夜明け前 第一部(上)」岩波文庫、岩波書店
1969(昭和44)年1月16日第1刷発行
底本の親本:「改版本『夜明け前』」新潮社
1936(昭和11)年7月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「ポルトガル」は、第二部ではすべて「ホルトガル」と表記されている
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