おいてもいささか鑑《かんが》みるところのあった証拠であり、王室に対する過去の非礼を陳謝する意味のものでもあって、同時に公武合体の意をいたし、一切の政務は従前どおり関東に委任するよしの御沙汰《ごさた》を拝するためであった。宮様御降嫁以来、帝《みかど》と将軍とはすでに義理ある御兄弟《ごきょうだい》の間柄である。もしこれが一層王室と将軍家とを結びつけるなかだちとなり、政令二途に出るような危機を防ぎ止め、動揺する諸藩の人心をしずめることに役立つなら、上洛に要する莫大《ばくだい》な費用も惜しむところではないと言って、関東方がこの旅に多くの望みをかけて行ったというに不思議はない。遠く寛永《かんえい》時代における徳川将軍の上洛と言えば、さかんな関東の勢いは一代を圧したもので、時の主上ですらわざわざ二条城へ行幸《ぎょうこう》せられたという。いよいよ将軍家|参内《さんだい》のおりには、多くの公卿《くげ》衆はお供の格で、いずれも装束《しょうぞく》着用で、先に立って案内役を勤めたものであったという。二百十余年の時はこの武将の位置を変えたばかりでなく、その周囲をも変えた。三条河原に残る示威のうわさに、志士浪人
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