と、神葬祭の一条も、何もかも、この街道の空気の中に埋《うず》め去られたようになった。和宮様|御下向《ごげこう》のうわさがあるのみだった。


 宮様は親子《ちかこ》内親王という。京都にある帝とは異腹《はらちがい》の御兄妹《ごきょうだい》である。先帝第八の皇女であらせらるるくらいだから、御姉妹も多かった。それがだんだん亡《な》くなられて、御妹としては宮様ばかりになったから、帝の御いつくしみも深かったわけである。宮様は幼いころから有栖川《ありすがわ》家と御婚約の間柄であったが、それが徳川将軍に降嫁せらるるようになったのも、まったく幕府の懇望にもとづく。
 もともと公武合体の意見は、当時の老中|安藤対馬《あんどうつしま》なぞのはじめて唱え出したことでもない。天璋院《てんしょういん》といえば、当時すでに未亡人《みぼうじん》であるが、その人を先の将軍の御台所《みだいどころ》として徳川家に送った薩摩《さつま》の島津氏などもつとに公武合体の意見を抱《いだ》いていて、幕府有司の中にも、諸藩の大名の中にもこの説に共鳴するものが多かった。言わば、国事の多端で艱難《かんなん》な時にあらわれて来た協調の精神で
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