った。人殺しはもってのほかだという。しかし八沢《やさわ》の長坂の路傍《みちばた》にあたるところで口論の末から土佐《とさ》の家中《かちゅう》の一人を殺害し、その仲裁にはいった一人の親指を切り落とし、この街道で刃傷《にんじょう》の手本を示したのも小池《こいけ》伊勢《いせ》の家中であった。女は手形《てがた》なしには関所をも通さないという。しかし木曾路を通るごとに女の乗り物を用意させ、見る人が見ればそれが正式な夫人のものでないのも彦根《ひこね》の殿様であった。
「あゝ。」と吉左衛門は嘆息して、「世の中はどうなって行くかと思うようだ。あの御勘定所のお役人なぞがお殿様からのお言葉だなんて、献金の世話を頼みに出張して来て、吾家《うち》の床柱の前にでもすわり込まれると、わたしはまたかと思う。しかし、金兵衛さん、そのお役人の行ってしまったあとでは、わたしはどんな無理なことでも聞かなくちゃならないような気がする……」
東海道浦賀の方に黒船の着いたといううわさを耳にした時、最初吉左衛門や金兵衛はそれほどにも思わなかった。江戸は大変だということであっても、そんな騒ぎは今にやむだろうぐらいに二人とも考えていた
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