義公、武公、烈公のような人たちが相続いてその家に生まれた点で。御三家《ごさんけ》の一つと言われるほどの親藩でありながら、大義名分を明らかにした点で。『常陸帯《ひたちおび》』を書き『回天詩史《かいてんしし》』を書いた藤田東湖はこの水戸をささえる主要な人物の一人《ひとり》として、少年時代の半蔵の目にも映じたのである。あの『正気《せいき》の歌』なぞを諳誦《あんしょう》した時の心は変わらずにある。そういう藤田東湖は、水戸内部の動揺がようやくしげくなろうとするころに、開港か攘夷《じょうい》かの舞台の序幕の中で、倒れて行った。
「東湖先生か。せめてあの人だけは生かして[#「生かして」は底本では「生かし」]置きたかった。」
 と半蔵は考えて、あの藤田東湖の死が水戸にとっても大きな損失であろうことを想《おも》って見た。
 やがて村へは庚申講《こうしんこう》の季節がやって来る。半蔵はそのめっきり冬らしくなった空をながめながら、自分の二十五という歳《とし》もむなしく暮れて行くことを思い、街道の片すみに立ちつくす時も多かった。

       四

 安政三年は馬籠《まごめ》の万福寺で、松雲|和尚《おしょう
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