って、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降《くだ》って来た。道の狭いところには、木を伐《き》って並べ、藤《ふじ》づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨《けんそ》な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫《はんらん》が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄《もよ》り最寄りの宿場に逗留《とうりゅう》して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷《けいこく》の最も深いところには木曾福島《きそふくしま》の関所も隠れていた。
東山道《とうさんどう》とも言い、木曾街道六十九|次《つぎ》とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋《いたばし》を経て江戸に続き、西は大津《おおつ》を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの
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