ぐい》もありて、良医これを用ひて病症に応ずればいちじるき効験《しるし》をあらはすもあれど、もとその薬性を知らず、又はその薬性を知りてもその用ふべきところを知らず、もしその病症に応ぜざれば大害を生じて、忽《たちま》ち人命をうしなふに至る。これは、譬《たと》へば、猿《さる》に利刀を持たせ、馬鹿《ばか》に鉄砲を放たしむるやうなもので、まことに危いことの甚《はなはだ》しいでござる。さて、その究理のくはしきは、悪《あ》しきことにはあらざれども、彼《か》の紅夷《あかえみし》ら、世には真《まこと》の神あるを知らず。人の智《ち》は限りあるを、限りなき万《よろ》づの物の理《ことわり》を考へ究《きわ》めんとするにつけては、強《し》ひたる説多く、元よりさかしらなる国風《くにぶり》なる故《ゆえ》に、現在の小理にかかはつて、かへつて幽神の大義を悟らず。それゆへにその説至つて究屈にして、我が古道の妨げとなることも多いでござる。さりながら、世間《せけん》の有様を考ふるに、今は物ごと新奇を好む風俗なれば、この学風も儒仏の道の栄えたるごとく、だんだんと弘《ひろ》まり行くことであらうと思はれる。しからんには、世のため、人のためとも成るべきことも多からうなれども、又、害となることも少なかるまいと思はれるでござる。是《これ》こそは彼《か》の吉事《よきこと》に是《こ》の凶事《まがごと》のいつぐべき世の中の道なるをもつて、さやうには推し量り知られることでござる。そもそもかく外国々《とつくにぐに》より万づの事物の我が大御国《おおみくに》に参り来ることは、皇神《すめらみかみ》たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故《ゆえ》に、善《よ》き悪《あ》しきの選みなく、森羅万象《しんらばんしょう》ことごとく皇国《すめらみくに》に御引寄せあそばさるる趣きを能《よ》く考へ弁《わきま》へて、外国《とつくに》より来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すも畏《かしこ》きことなれども、是《これ》すなはち大神等《おおみかみたち》の御心掟《みこころおきて》と思ひ奉られるでござる。」
半蔵は深いため息をついた。それは、自分の浅学と固陋《ころう》とばか正直とを嘆息する声だ。先師と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎《だかつ》のように憎みきらった人のように普通に思われているが、『静の岩屋』なぞをあけて見ると、近くは朝鮮、シナ、インド、遠くはオランダまで、外国の事物が日本に集まって来るのは、すなわち神の心であるというような、こんな広い見方がしてある。先師は異国の借り物をかなぐり捨てて本然《ほんねん》の日本に帰れと教える人ではあっても、むやみにそれを排斥せよとは教えてない。
この『静の岩屋』の中には、「夷《えびす》」という古言まで引き合いに出して、その言葉の意味が平常目に慣れ耳に触れるとは異なった事物をさしていうに過ぎないことも教えてある。たとえば、ありゃこりゃに人の前にすえた膳《ぜん》は「えびす膳」、四角であるべきところを四角でなく裁ち合わせた紙は「えびす紙」、元来外用の薬種とされた芍薬《しゃくやく》が内服しても病のなおるというところから「えびす薬」(芍薬の和名)というふうに。黒くてあるべき髪の毛が紅《あか》く、黒くてあるべき瞳《ひとみ》が青ければこそ、その人は「えびす」である、とも教えてある。
半蔵はひとり言って見た。
「師匠はやっぱり大きい。」
半蔵の心に描く平田篤胤とは、あの本居宣長を想《おも》い見るたびに想像せらるるような美丈夫という側の人ではなかった。彼はある人の所蔵にかかる先師の画像というものを見たことがある。広い角額《かくびたい》、大きな耳、遠いところを見ているような目、彼がその画像から受けた感じは割合に面長《おもなが》で、やせぎすな、どこか角張《かくば》ったところのある容貌《ようぼう》の人だ。四十台か、せいぜい五十に手の届く年ごろの面影《おもかげ》と見えて、まだ黒々とした髪も男のさかりらしく、それを天保《てんぽう》時代の風俗のような髻《たぶさ》に束ねてあった。それは見台をわきにした座像《ざぞう》で、三蓋菱《さんがいびし》の羽織《はおり》の紋や、簡素な線があらわした着物の襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひだ》にも特色があったが、ことに、その左の手を寛《くつろ》いだ形に置き、右の手で白扇をついた膝《ひざ》こそは先師のものだ、と思って、心をとめて見た覚えがある。見台の上に、先師|畢生《ひっせい》の大きな著述とも言うべき『古史伝』稿本の一つが描いてあったことも、半蔵には忘れられなかった。あだかも、先師はあの画像から膝《ひざ》を乗り出して、彼の前にいて、「一切は神の心であろうでござる」とでも言っているように彼には思われて来た。
四
前へ
次へ
全119ページ中114ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング