まにか浅黄色の襦袢《じゅばん》の襟《えり》のよく似合うような若衆姿になって来た。彼は綿密な性質で、服装《なりふり》なぞにあまりかまわない方の勉強家であるが、持って生まれた美しさは宿の人の目をひいた。かわるがわるこの少年をのぞきに来る若い娘たちのけはいはしても、そればかりは半蔵もどうすることもできなかった。
「勝重さん、君は、くたぶれたら横にでもなるさ。」
「お師匠さま、勝手にやりますよ。どうもお師匠さまの足の速いには、わたしも驚きましたよ。須原《すはら》から王滝まで、きょうの山道はかなり歩きでがありました。」
間もなく勝重は高いびきだ。半蔵はひとり行燈《あんどん》の灯《ひ》を見つめて、長いこと机の前にすわっていた。大判の薄藍色《うすあいいろ》の表紙から、古代紫の糸で綴《と》じてある装幀《そうてい》まで、彼が好ましく思う意匠の本がその机の上にひろげてある。それは門人らの筆記になる平田篤胤の講本だ。王滝の宿であけて見たいと思って、馬籠を出る時に風呂敷包《ふろしきづつ》みの中に入れて来た上下二冊の『静の岩屋』だ。
さびしく聞こえて来る夜の河《かわ》の音は、この半蔵の心を日ごろ精神の支柱と頼む先師平田|大人《うし》の方へと誘った。もしあの先師が、この潮流の急な文久三年度に生きるとしたら、どう時代の暗礁《あんしょう》を乗り切って行かれるだろうかと思いやった。
攘夷――戦争をもあえて辞しないようなあの殺気を帯びた声はどうだ。半蔵はこのひっそりとした深山幽谷の間へ来て、敬慕する故人の前にひとりの自分を持って行った時に、馬籠の街道であくせくと奔走する時にもまして、一層はっきりとその声を耳の底に聞いた。景蔵、香蔵の親しい友人を二人までも京都の方に見送った彼は、じっとしてはいられなかった。熱する頭をしずめ、逸《はや》る心を抑《おさ》えて、平田門人としての立場に思いを潜めねばならなかった。その時になると、同じ勤王に志すとは言っても、その中には二つの大きな潮流のあることが彼に見えて来た。水戸の志士藤田東湖らから流れて来たものと、本居平田諸大人に源を発するものと。この二つは元来同じものではない。名高い弘道館の碑文にもあるように、神州の道を敬い同時に儒者の教えをも崇《あが》めるのが水戸の傾向であって、国学者から見れば多分に漢意《からごころ》のまじったものである。その傾向を押し進め、国家無窮の恩に報いることを念とし、楠公《なんこう》父子ですら果たそうとして果たし得なかった武将の夢を実現しようとしているものが、今の攘夷を旗じるしにする討幕運動である。もとより攘夷は非常手段である。そんな非常手段に訴えても、真木和泉《まきいずみ》らの志士が起こした一派の運動は行くところまで行かずに置かないような勢いを示して来た。
この国ははたしてどうなるだろう。明日は。明後日は。そこまで考え続けて行くと、半蔵は本居大人がのこした教えを一層尊いものに思った。同時代に満足しなかったところから、過去に探求の目を向けた先人はもとより多い。その中でも、最も遠い古代に着眼した宣長のような国学者が、最も新しい道を発見して、その方向をあとから歩いて出て行くものにさし示してくれたことをありがたく思った。
「勝重さん、風引くといけないよ。床にはいって、ほんとうにお休み。」
半蔵は行燈《あんどん》のかげにうたた寝している少年を起こして、床につかせ、それからさらに『静の岩屋』を繰って見た。この先師ののこした著述は、だれにでもわかるように、また、ひろく読まれるように、その用意からごく平易な言葉で門人に話しかけた講本の一つである。その中に、半蔵は異国について語る平田大人を見た。先師は天保十四年に没した故人のことで、もとより嘉永六年の夏に相州浦賀に着いたアメリカ船の騒ぎを知らず、まして十一隻からのイギリス艦隊が横浜に入港するまでの社会の動揺を知りようもない。しかし平田大人のような人の目に映るヨーロッパから、その見方、その考え方を教えられることは半蔵にとって実にうれしくめずらしかった。
『静の岩屋』にいわく、
「さて又、近ごろ西の極《はて》なるオランダといふ国よりして、一種の学風おこりて、今の世に蘭学と称するもの、則《すなわ》ちそれでござる。元来その国柄と見えて、物の理《ことわり》を考へ究《きわ》むること甚《はなは》だ賢く、仍《よっ》ては発明の説も少なからず。天文地理の学は言ふに及ばず、器械の巧みなること人の目を驚かし、医薬|製煉《せいれん》の道|殊《こと》にくはしく、その書《ふみ》どももつぎつぎと渡り来《きた》りて世に弘《ひろ》まりそめたるは、即《すなわ》ち神の御心であらうでござる。然《しか》るに、その渡り来る薬品どもの中には効能の勝《すぐ》れたるもあり、又は製煉を尽して至つて猛烈なる類《た
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