いよ引退の時期が来るまでは、まだまだ勤められるだけ勤めようとしている。金兵衛とても、この人に負けてはいなかった。
二
山里へは春の来ることもおそい。毎年旧暦の三月に、恵那《えな》山脈の雪も溶けはじめるころになると、にわかに人の往来も多い。中津川《なかつがわ》の商人は奥筋《おくすじ》(三留野《みどの》、上松《あげまつ》、福島から奈良井《ならい》辺までをさす)への諸|勘定《かんじょう》を兼ねて、ぽつぽつ隣の国から登って来る。伊那《いな》の谷の方からは飯田《いいだ》の在のものが祭礼の衣裳《いしょう》なぞを借りにやって来る。太神楽《だいかぐら》もはいり込む。伊勢《いせ》へ、津島へ、金毘羅《こんぴら》へ、あるいは善光寺への参詣《さんけい》もそのころから始まって、それらの団体をつくって通る旅人の群れの動きがこの街道に活気をそそぎ入れる。
西の領地よりする参覲交代《さんきんこうたい》の大小の諸大名、日光への例幣使《れいへいし》、大坂の奉行《ぶぎょう》や御加番衆《おかばんしゅう》などはここを通行した。吉左衛門なり金兵衛なりは他の宿役人を誘い合わせ、羽織《はおり》に無刀、扇子《せんす》をさして、西の宿境《しゅくざかい》までそれらの一行をうやうやしく出迎える。そして東は陣場《じんば》か、峠の上まで見送る。宿から宿への継立《つぎた》てと言えば、人足《にんそく》や馬の世話から荷物の扱いまで、一通行あるごとに宿役人としての心づかいもかなり多い。多人数の宿泊、もしくはお小休《こやす》みの用意も忘れてはならなかった。水戸《みと》の御茶壺《おちゃつぼ》、公儀の御鷹方《おたかかた》をも、こんなふうにして迎える。しかしそれらは普通の場合である。村方の財政や山林田地のことなぞに干渉されないで済む通行である。福島勘定所の奉行を迎えるとか、木曾山一帯を支配する尾張藩《おわりはん》の材木方を迎えるとかいう日になると、ただの送り迎えや継立てだけではなかなか済まされなかった。
多感な光景が街道にひらけることもある。文政九年の十二月に、黒川村の百姓が牢舎《ろうや》御免ということで、美濃境まで追放を命ぜられたことがある。二十二人の人数が宿籠《しゅくかご》で、朝の五つ時《どき》に馬籠《まごめ》へ着いた。師走《しわす》ももう年の暮れに近い冬の日だ。その時も、吉左衛門は金兵衛と一緒に雪の中を奔走して、村の二軒の旅籠屋《はたごや》で昼じたくをさせるから国境《くにざかい》へ見送るまでの世話をした。もっとも、福島からは四人の足軽《あしがる》が付き添って来たが、二十二人ともに残らず腰繩《こしなわ》手錠であった。
五十余年の生涯《しょうがい》の中で、この吉左衛門らが記憶に残る大通行と言えば、尾張藩主の遺骸《いがい》がこの街道を通った時のことにとどめをさす。藩主は江戸で亡《な》くなって、その領地にあたる木曾谷を輿《こし》で運ばれて行った。福島の代官、山村氏から言えば、木曾谷中の行政上の支配権だけをこの名古屋の大領主から託されているわけだ。吉左衛門らは二人《ふたり》の主人をいただいていることになるので、名古屋城の藩主を尾州《びしゅう》の殿と呼び、その配下にある山村氏を福島の旦那《だんな》様と呼んで、「殿様」と「旦那様」で区別していた。
「あれは天保《てんぽう》十年のことでした。全く、あの時の御通行は前代未聞《ぜんだいみもん》でしたわい。」
この金兵衛の話が出るたびに、吉左衛門は日ごろから「本陣鼻」と言われるほど大きく肉厚《にくあつ》な鼻の先へしわをよせる。そして、「また金兵衛さんの前代未聞が出た」と言わないばかりに、年齢《とし》の割合にはつやつやとした色の白い相手の顔をながめる。しかし金兵衛の言うとおり、あの時の大通行は全く文字どおり前代未聞の事と言ってよかった。同勢およそ千六百七十人ほどの人数がこの宿にあふれた。問屋の九太夫《くだゆう》、年寄役の儀助《ぎすけ》、同役の新七、同じく与次衛門《よじえもん》、これらの宿役人仲間から組頭《くみがしら》のものはおろか、ほとんど村じゅう総がかりで事に当たった。木曾谷中から寄せた七百三十人の人足だけでは、まだそれでも手が足りなくて、千人あまりもの伊那の助郷《すけごう》が出たのもあの時だ。諸方から集めた馬の数は二百二十匹にも上った。吉左衛門の家は村でも一番大きい本陣のことだから言うまでもないが、金兵衛の住居《すまい》にすら二人の御用人《ごようにん》のほかに上下合わせて八十人の人数を泊め、馬も二匹引き受けた。
木曾は谷の中が狭くて、田畑もすくない。限りのある米でこの多人数の通行をどうすることもできない。伊那の谷からの通路にあたる権兵衛《ごんべえ》街道の方には、馬の振る鈴音に調子を合わせるような馬子唄《まごうた》が起こって、米をつけた馬
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