にもなってまだ子供がない。おれはお前たちがうらやましい。」
 そこへおばあさんが来た。おばあさんは木曾の山の中にめずらしい横浜|土産《みやげ》を置いて行った人があると言って、それをお民のいるところへ取り出して来て見せた。
「これだよ。これはお洗濯《せんたく》する時に使うものだそうなが、使い方はこれをくれた人にもよくわからない。あんまり美しいものだから横浜の異人屋敷から買って来たと言って、飯田《いいだ》の商人が土産に置いて行ったよ。」
 石鹸《せっけん》という言葉もまだなかったほどの時だ。くれる飯田の商人も、もらう妻籠のおばあさんも、シャボンという名さえ知らなかった。おばあさんが紙の包みをあけて見せたものは、異国の花の形にできていて、薄桃色と白とある。
「御覧、よい香気《におい》だこと。」
 とおばあさんに言われて、お民は目を細くしたが、第一その香気《におい》に驚かされた。
「お粂《くめ》、お前もかいでごらん。」
 お民がその白い方を女の子の鼻の先へ持って行くと、お粂はそれを奪い取るようにして、いきなり自分の口のところへ持って行こうとした。
「これは食べるものじゃないよ。」とお民はあわてて、娘の手を放させた。「まあ、この子は、お菓子と間違えてさ。」
 新しい異国の香気《におい》は、そこにいるだれよりも寿平次の心を誘った。めずらしい花の形、横に浮き出している精巧なローマ文字――それはよく江戸|土産《みやげ》にもらう錦絵《にしきえ》や雪駄《せった》なぞの純日本のものにない美しさだ。実に偶然なことから、寿平次は西洋ぎらいでもなくなった。古銭を蒐集《しゅうしゅう》することの好きな彼は、異国の銀貨を手に入れて、人知れずそれを愛翫《あいがん》するうちに、そんな古銭にまじる銀貨から西洋というものを想像するようになった。しかし彼はその事をだれにも隠している。
「これはどうして使うものだろうねえ。」とおばあさんはまたお民に言って見せた。「なんでも水に溶かすという話を聞いたから、わたしは一つ煮て見ましたよ。これが、お前、ぐるぐる鍋《なべ》の中で回って、そのうちに溶けてしまったよ。棒でかき回して見たら、すっかり泡《あわ》になってさ。なんだかわたしは気味が悪くなって、鍋ぐるみ土の中へ埋めさせましたよ。ひょっとすると、これはお洗濯《せんたく》するものじゃないかもしれないね。」
「でも、わたしは初めてこんなものを見ました。おばあさんに一つ分けていただいて、馬籠の方へも持って行って見せましょう。」
 とお民が言う。
「そいつは、よした方がいい。」
 寿平次は兄らしい調子で妹を押しとどめた。
 文久元年の六月を迎えるころで、さかんな排外熱は全国の人の心を煽《あお》り立てるばかりであった。その年の五月には水戸藩浪士らによって、江戸|高輪東禅寺《たかなわとうぜんじ》にあるイギリス公使館の襲撃さえ行なわれたとの報知《しらせ》もある。その時、水戸側で三人は闘死し、一人《ひとり》は縛に就《つ》き、三人は品川で自刃《じじん》したという。東禅寺の衛兵で死傷するものが十四人もあり、一人の書記と長崎領事とは傷ついたともいう。これほど攘夷《じょうい》の声も険しくなって来ている。どうして飯田の商人がくれた横浜土産の一つでも、うっかり家の外へは持ち出せなかった。


 お民が馬籠をさして帰って行く日には、寿平次も半蔵の父に用事があると言って、妹を送りながら一緒に行くことになった。彼には伊那《いな》助郷《すけごう》の願書の件で、吉左衛門の調印を求める必要があった。野尻《のじり》、三留野《みどの》はすでに調印を終わり、残るところは馬籠の庄屋のみとなったからで。
 ちょうど馬籠の本陣からは、下男の佐吉がお民を迎えに来た。佐吉はお粂《くめ》を背中にのせ、後ろ手に幼いものを守るようにして、足の弱い女の子は自分が引き受けたという顔つきだ。お民もしたくができた。そこで出かけた。
「寿平次さま、横須賀行きを思い出すなし。」
 足掛け四年前の旅は、佐吉にも忘れられなかったのだ。
 寿平次が村のあるところは、大河の流れに近く、静母《しずも》、蘭《あららぎ》の森林地帯に倚《よ》り、木曾の山中でも最も美しい谷の一つである。馬籠の方へ行くにはこの谷の入り口を後ろに見て、街道に沿いながら二里ばかりの峠を上る。めったに家を離れることのないお民が、兄と共に踏んで行くことを楽しみにするも、この山道だ。街道の両側は夏の日の林で、その奥は山また山だ。木曾山一帯を支配する尾張藩《おわりはん》の役人が森林保護の目的で、禁止林の盗伐を監視する白木《しらき》の番所も、妻籠と馬籠の間に隠れている。
 午後の涼しい片影ができるころに、寿平次らは復興最中の馬籠にはいった。どっちを向いても火災後の宿場らしく、新築の工事は行く先に始まりか
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