心した、と言うのは寿平次であった。思いがけない屋敷町の方で読書の声を聞いて来た、と言うのは半蔵であった。
 その晩、半蔵は寿平次と二人|枕《まくら》を並べて床についたが、夜番の拍子木《ひょうしぎ》の音なぞが耳について、よく眠らなかった。枕もとにあるしょんぼりとした行燈《あんどん》のかげで、敷いて寝た道中用の脇差《わきざし》を探って見て、また安心して蒲団《ふとん》をかぶりながら、平田家を訪《たず》ねた日のことなぞを考えた。あの鉄胤《かねたね》から古学の興隆に励めと言われて来たことを考えた。世は濁り、江戸は行き詰まり、一切のものが実に雑然紛然として互いに叫びをあげている中で、どうして国学者の夢などをこの地上に実現し得られようと考えた。
「自分のような愚かなものが、どうして生きよう。」
 そこまで考えつづけた。
 翌朝は、なるべく早く出立しようということになった。時が来て、半蔵は例の青い合羽《かっぱ》、寿平次は柿色《かきいろ》の合羽に身をつつんで、すっかりしたくができた。佐吉はすでに草鞋《わらじ》の紐《ひも》を結んだ。三人とも出かけられるばかりになった。
 十一屋の隠居はそこへ飛んで出て来て、
「オヤ、これはどうも、お粗末さまでございました。どうかまた、お近いうちに。」
 と手をもみながら言う。江戸生まれで、まだ木曾を知らないというかみさんまでが、隠居のそばにいて、
「ほんとに、木曾のかたはおなつかしい。」
 と別れぎわに言い添えた。
 十一屋のあるところから両国橋まではほんの一歩《ひとあし》だ。江戸のなごりに、隅田川《すみだがわ》を見て行こう、と半蔵が言い出して、やがて三人で河岸の物揚げ場の近くへ出た。早い朝のことで、大江戸はまだ眠りからさめきらないかのようである。ちょうど、渦巻《うずま》き流れて来る隅田川の水に乗って、川上の方角から橋の下へ降《くだ》って来る川船があった。あたりに舫《もや》っている大小の船がまだ半分夢を見ている中で、まず水の上へ活気をそそぎ入れるものは、その船頭たちの掛け声だ。十一屋の隠居の話で、半蔵らはそれが埼玉《さいたま》川越《かわごえ》の方から伊勢町河岸《いせちょうがし》へと急ぐ便船《びんせん》であることを知った。
「日の出だ。」
 言い合わせたようなその声が起こった。三人は互いに雀躍《こおどり》して、本所《ほんじょ》方面の初冬らしい空に登る太陽を迎えた。紅《あか》くはあるが、そうまぶしく輝かない。木曾の奥山に住み慣れた人たちは、谷間からだんだん明るくなることは知っていても、こんな日の出は知らないのだ。間もなく三人は千住《せんじゅ》の方面をさして、静かにその橋のたもとからも離れて行った。

       四

 千住から日光への往復九十里、横須賀への往復に三十四里、それに江戸と木曾との間の往復の里程を加えると、半蔵らの踏む道はおよそ二百九十里からの旅である。
 日光への寄り道を済まして、もう一度三人が千住まで引き返して来たころは、旅の空で旧暦十一月の十日過ぎを迎えた。その時は、千住からすぐに高輪《たかなわ》へと取り、札《ふだ》の辻《つじ》の大木戸《おおきど》、番所を経て、東海道へと続く袖《そで》が浦《うら》の岸へ出た。うわさに聞く御台場《おだいば》、五つの堡塁《ほうるい》から成るその建造物はすでに工事を終わって、沖合いの方に遠く近く姿をあらわしていた。大森《おおもり》の海岸まで行って、半蔵はハッとした。初めて目に映る蒸汽船――徳川幕府がオランダ政府から購《か》い入れたという外輪型《がいりんがた》の観光丸がその海岸から望まれた。
 とうとう、半蔵らの旅は深い藍色《あいいろ》の海の見えるところまで行った。神奈川《かながわ》から金沢《かなざわ》へと進んで、横須賀行きの船の出る港まで行った。客や荷物を待つ船頭が波打ちぎわで船のしたくをしているところまで行った。
「なんだか遠く来たような気がする。郷里《くに》の方でも、みんなどうしていましょう。」
「さあ、ねえ。」
「わたしたちが帰って行く時分には、もう雪が村まで来ていましょう。」
「なんだぞなし。きっと、けさはサヨリ飯でもたいて、こっちのうわさでもしているぞなし。」
 三人はこんなことを語り合いながら、金沢の港から出る船に移った。
 海は動いて行く船の底でおどった。もはや、半蔵らはこれから尋ねて行こうとする横須賀在、公郷村《くごうむら》の話で持ち切った。五百年からの歴史のある古い山上《やまがみ》の家族がそこに住むかと語り合った。三浦一族の子孫にあたるという青山家の遠祖が、あの山上の家から分かれて、どの海を渡り、どの街道を通って、遠く木曾谷の西のはずれまではいって行ったものだろうと語り合った。
 当時の横須賀はまだ漁村である。船から陸を見て行くことも生まれて初めてのよ
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