あるにしても、将軍家としてはわずか十日ばかりの滞在の予定で京都を辞し去ることはできない状態にあった。
しかし、その年の二月から、遠く横浜の港の方には、十一隻から成るイギリス艦隊の碇泊《ていはく》していたことを見のがしてはならない。それらの艦隊がややもすれば自由行動をも執りかねまじき態度を示していたことを見のがしてはならない。それにはいわゆる生麦《なまむぎ》事件なるものを知る必要がある。
横浜開港以来、足掛け五年にもなる。排外を意味する横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとのうわさは幾回となく伝わったばかりでなく、江戸|高輪《たかなわ》東禅寺《とうぜんじ》にある英国公使館は襲われ、外人に対する迫害|沙汰《ざた》も頻々《ひんぴん》として起こった。下田《しもだ》以来の最初の書記として米国公使館に在勤していたヒュウスケンなぞもその犠牲者の一人《ひとり》だ。彼は日米外交のそもそもからハリスと共にその局に当たった人で、日本の国情に対する理解も同情も深かったと言わるるが、江戸|三田《みた》古川橋《ふるかわばし》のほとりで殺害された。これらの外人を保護するため幕府方で外国御用の出役《しゅつやく》を設置し、三百余人の番衆の子弟をしてそれに当たらせるなぞのことがあればあるほど、多くの人の反感はますます高まるばかりであった。そこへ生麦事件だ。
生麦事件とは何か。これは意外に大きな外国関係のつまずきを引き起こした東海道筋での出来事である。時は前年八月二十一日、ところは川崎駅に近い生麦村、香港《ホンコン》在留の英国商人リチャアドソン、同じ香港《ホンコン》より来た商人の妻ボロオデル、横浜在留の英国商人マアシャル、およびクラアク、この四人のものが横浜から川崎方面に馬を駆って、おりから江戸より帰西の途にある薩摩《さつま》の島津久光《しまづひさみつ》が一行に行きあった。勅使|大原左衛門督《おおはらさえもんのかみ》に随行して来た島津氏の供衆も数多くあって帰りの途中も混雑するであろうから、ことに外国の事情に慣れないものが多くて自然行き違いを生ずべき懸念《けねん》もあるから、当日は神奈川《かながわ》辺の街道筋を出歩くなとは、かねて神奈川奉行から各国領事を通じて横浜居留の外国人へ通達してあったというが、その意味がよく徹底しなかったのであろう。馬上の英国人らは行列の中へ乗り入れようとしたのでもなか
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