段とする運動を起こしたのは、すでに弘化《こうか》安政のころからである。あの京都寺田屋の事変などはこの運動のあらわれであった。これは次第に王室回復の志を抱《いだ》く公卿たちと結びつき、歴史的にも幕府と相いれない長州藩の支持を得るようになって、一層組織のあるものとなった。尊王攘夷は実にこの討幕運動の旗じるしだ。これは王室の衰微を嘆き幕府の専横を憤る烈《はげ》しい反抗心から生まれたもので、その出発点においてまじりけのあったものではない。その計画としては攘夷と討幕との一致結合を謀《はか》り、攘夷の名によって幕府の破壊に突進しようとするものである。あの水戸藩士、藤田東湖《ふじたとうこ》、戸田蓬軒《とだほうけん》らの率先して唱え初めた尊王攘夷は、幾多の屈折を経て、とうとうこの実行運動にまで来た。


 排外の声も高い。もとより開港の方針で進んで来た幕府当局でも、海岸の防備をおろそかにしていいとは考えなかったのである。参覲交代《さんきんこうたい》のような幕府にとって最も重大な政策が惜しげもなく投げ出されたというのも、その一面は諸大名の江戸出府に要する無益な費用を省いて、兵力を充実し、武備を完全にするためであった。いかんせん、徳川幕府としては諸藩を統一してヨーロッパよりする勢力に対抗しうるだけの信用をも実力をも持たなかった。それでも京都方を安心させるため、宮様御降嫁の当時から外夷《がいい》の防禦《ぼうぎょ》を誓い、諸外国と取り結んだ条約を引き戻《もど》すか、無法な侵入者を征伐するか、いずれかを選んで叡慮《えいりょ》を安んずるであろうとの言質《げんち》が与えてある。この一時の気休めが京都方を満足させるはずもない。周囲の事情はもはやあいまいな態度を許さなかった。将軍の上洛に先だってその準備のために京都に滞在していた一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》ですら、三条実美《さんじょうさねとみ》、阿野公誠《あのきんみ》を正使とし、滋野井実在《しげのいさねあり》、正親町公董《おおぎまちきんただ》、姉小路公知《あねのこうじきんとも》を副使とする公卿たちから、将軍|入洛《じゅらく》以前にすでに攘夷期限を迫られていたほどの時である。今度の京都訪問を機会に、家茂《いえもち》の名によってこの容易ならぬ問題に確答を与えないかぎり、たとい帝御自身の年若な将軍に寄せらるる御同情があり、百方その間を周旋する慶喜の尽力が
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