き継ぎ、それを営むということが、もとより彼の心をよろこばせないではない。しかし、実際に彼がこの家を背負《しょ》って立とうとなると、これがはたして自分の行くべき道かと考える。国学者としての多くの同志――ことに友人の景蔵なぞが寝食を忘れて国事に奔走している中で、父は病み、実の兄弟《きょうだい》はなし、ただ一人《ひとり》お喜佐のような異腹《はらちがい》の妹に婿養子の祝次郎はあっても、この人は新宅の方にいて彼とはあまり話も合わなかった。
 秋らしい日が来ていた。店座敷の障子には、裏の竹林の方からでも飛んで来たかと思われるようなきりぎりすがいて、細長い肢《あし》を伸ばしながら静かに障子の骨の上をはっている。半蔵の目はそのすずしそうな青い羽をながめるともなくながめて、しばらく虫の動きを追っていた。
 お民は店座敷へ来て言った。
「あなた、顔色が青いじゃありませんか。」
「そりゃ、お前、生きてる人間だもの。」
 これにはお民も二の句が継げなかった。そこへ継母のおまんが一人の男を連れてはいって来た。
「半蔵、清助さんがこれから吾家《うち》へ手伝いに通《かよ》って来てくれますよ。」
 和田屋の清助という人だ。半蔵の家のものとは遠縁にあたる。本陣問屋庄屋の雑務を何くれとなく手伝ってもらうには、持って来いという人だ。清助は吉左衛門が見立てた人物だけあって、青々と剃《そ》り立てた髯《ひげ》の跡の濃い腮《あご》をなでて、また福島の役所の方から代替《だいがわ》り本役の沙汰《さた》もないうちから、新主人半蔵のために祝い振舞《ぶるまい》の時のしたくなぞを始めた。客は宿役人の仲間の衆。それに組頭《くみがしら》一同。当日はわざと粗酒一|献《こん》。そんな相談をおまんにするのも、この清助だ。
 青山、小竹両家で待たれる福島の役所からの剪紙《きりがみ》(召喚状)が届いたのは、それから間もなかった。それには青山吉左衛門|忰《せがれ》、年寄役小竹金兵衛忰、両人にて役所へまかりいでよとある。付添役二人、宿方|惣代《そうだい》二人同道の上ともある。かねて願って置いた吉左衛門らの退役と隠居がきき届けられ、跡役は二人の忰《せがれ》たちに命ずると書いてないまでも、その剪紙《きりがみ》の意味はだれにでも読めた。
 半蔵も心を決した。彼は隣家の伊之助を誘って、福島をさして出かけた。木曾路に多い栗《くり》の林にぱらぱら時雨《
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