。半蔵はこの父の様子をちょっとのぞいたあとで、南側の長い廊下を歩いて見た。オランダ留学生のうわさを思いながら、ひとり言って見た。
「黒船はふえるばかりじゃないかしらん。」


 とうとう、半蔵は父の前に呼ばれて、青山の家に伝わった古い書類なぞを引き渡されるような日を迎えた。父の退役はもはや時の問題であったからで。
 本陣問屋庄屋の三役を勤めるに必要な公用の記録から、田畑家屋敷に関する反別《たんべつ》、年貢《ねんぐ》、掟年貢《おきてねんぐ》なぞを記《しる》しつけた帳面の類《たぐい》までが否応《いやおう》なしに半蔵の前に取り出された。吉左衛門は半蔵に言いつけて、古い箱につけてある革《かわ》の紐《ひも》を解かせた。人馬の公用を保証するために、京都の大舎人寮《おおとねりりょう》、江戸の道中奉行所をはじめ、その他全国諸藩から送ってよこしてある大小種々の印鑑がその中から出て来た。宿駅の合印《あいじるし》だ。吉左衛門はまた半蔵に言いつけて、別の箱の紐《ひも》を解かせた。その中には、遠く慶長《けいちょう》享保《きょうほう》年代からの御年貢|皆済目録《かいさいもくろく》があり、代々持ち伝えても破損と散乱との憂いがあるから、後の子孫のために一巻の軸とすると書き添えた先祖の遺筆も出て来た。
「これはお前の方へ渡す。」
 父は半蔵の方で言おうとすることを聞き入れようともしなかった。親の譲るものは、子の受け取るべきもの。そうひとりできめて、いろいろな事務用の帳面や数十通の書付なぞをそこへ取り出した。村方の関係としては、当時の戸籍とも言うべき宗門|人別《にんべつ》から、検地、年貢、送籍、縁組、離縁、訴訟の手続きまでを記しつけたもの。
「これも大切な古帳だ。」
 と吉左衛門は言って、左の手でそれを半蔵の方へ押しやった。木曾山中の御免荷物として、木材通用の跡を記しつけたものだった。森林保護の目的から伐採を禁じられている五木の中でも、毎年二百|駄《だ》ずつの檜《ひのき》、椹《さわら》の類《たぐい》の馬籠村にも許されて来たことが、その中に明記してあった。
「なんだかおれも遠く来たような気がする。」と吉左衛門は言った。「おれの長い道づれはあの金兵衛さんだが、どうやらけんかもせずにここまで来た。まあ、何十年の間、おれはほとんどあの人と言い合ったことがない。ただ二度――そうさ、ただ二度あるナ。一度はお喜佐と
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