しげもなく投げ出されたばかりでなく、大赦は行なわれる、山陵は修復される、京都の方へ返していいような旧《ふる》い慣例はどしどし廃された。幕府から任命していた皇居九門の警衛までも撤去された。およそ幕府の力にできるようなことは、松平春嶽を中心の人物にし山内容堂を相談役とする新内閣の手で行なわれるようになった。
 封建時代にあるものの近代化は、後世を待つまでもなく、すでにその時に始まって来た。松平春嶽、山内容堂、この二人《ふたり》はそれぞれの立場にあり、領地の事情をも異にしていたが、時代の趨勢《すうせい》に着眼して早くから幕政改革の意見を抱《いだ》いたことは似ていた。その就職以前から幕府に対して同情と理解とを持つことにかけても似ていた。水戸の御隠居、肥前《ひぜん》の鍋島閑叟《なべしまかんそう》、薩摩《さつま》の島津久光の諸公と共に、生前の岩瀬肥後から啓発せらるるところの多かったということも似ていた。あの四十に手が届くか届かないかの若さで早くこの世を去った岩瀬肥後ののこした開国の思想が、その人の死後になってまた働き初めたということにも不思議はない。蕃書《ばんしょ》調所は洋書調所(開成所、後の帝国大学の前身)と改称される。江戸の講武所《こうぶしょ》における弓術や犬追物《いぬおうもの》なぞのけいこは廃されて、歩兵、騎兵、砲兵の三兵が設けられる。井伊大老在職の当時に退けられた人材はまたそれぞれの閑却された位置から身を起こしつつある。門閥と兵力とにすぐれた会津《あいづ》藩主松平|容保《かたもり》は、京都守護職の重大な任務を帯びて、新たにその任地へと向かいつつある。
 時には、オランダ留学生派遣のうわさが夢のように半蔵の耳にはいる。二度も火災をこうむった江戸城建築のころは、まだ井伊大老在職の日で、老中水野越前守が造り残した数百万両の金銀の分銅《ふんどう》はその時に費やされたといわれ、公儀の御金庫《おかねぐら》はあれから全く底を払ったと言われる。それほど苦しい身代のやり繰りの中で、今度の新内閣がオランダまで新知識を求めさせにやるというその思い切った方針が、半蔵を驚かした。
 ちょうど、父吉左衛門は家にいて、例の寛《くつろ》ぎの間《ま》にこもって、もはや退役の日のしたくなぞを始めていた。祖父半六は六十六歳まで宿役人を勤め、それから家督を譲って隠居したが、父は六十四歳でそれをするというふうに
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