街道のことも思い合わされて、寿平次はうなずいた。
「お民、お前も骨休めだ。まあ二、三日、妻籠で寝て行くさ。」
「兄さんの言うこと。」
 兄妹《きょうだい》がこんな話をしているところへ、つかつかと庭を回って伊那から帰ったばかりの顔を見せたのは、日ごろ勝手を知った得右衛門である。伊那でも有力な助郷総代を島田村や山村に訪《たず》ねるのに、得右衛門はその適任者であるばかりでなく、妻籠|脇本陣《わきほんじん》の主人として、また、年寄役の一人《ひとり》として、寿平次の父が早く亡《な》くなってからは何かにつけて彼の後見役《こうけんやく》となって来たのもこの得右衛門である。得右衛門の家で造り酒屋をしているのも、馬籠の伏見屋によく似ていた。
 寿平次はお民に目くばせして、そこを避けさせ、母屋《もや》の方へ庭を回って行く妹を見送った。小屋の荒い壁には弓をたてかけるところもある。彼は※[#「革+喋のつくり」、第4水準2−92−7]《ゆがけ》の紐《ひも》を解いて、その隠れた静かな場所に気の置けない得右衛門を迎えた。
 得右衛門の報告は、寿平次が心配して待っていたとおりだった。伊那助郷が木曾にある下四宿の宿役人を通し、あるいは直接に奉行所にあてて愁訴を企てたのは、その日に始まったことでもない。三十一か村の助郷を六十五か村で分担するようになったのも、実は愁訴の結果であった。ずっと以前の例によると、助郷を勤める村々は五か年を平均して、人足だけでも一か年の石高《こくだか》百石につき、十七人二分三厘三毛ほどに当たる。しかしこれは天保年度のことで、助郷の負担は次第に重くなって来ている。ことに、黒船の渡って来た嘉永年代からは、諸大名公役らが通行もしげく、そのたびに徴集されて嶮岨《けんそ》な木曾路を往復することであるから、自然と人馬も疲れ、病人や死亡者を生じ、継立《つぎた》てにもさしつかえるような村々が出て来た。いったい、助郷人足が宿場の勤めは一日であっても、山を越して行くには前の日に村方を出て、その晩に宿場に着き、翌日勤め、継ぎ場の遠いところへ継ぎ送って宿場へ帰ると、どうしてもその晩は村方へ帰りがたい。一日の勤めに前後三日、どうかすると四日を費やし、あまつさえ泊まりの食物の入費も多く、折り返し使わるる途中で小遣銭《こづかいせん》もかかり、その日に取った人馬賃銭はいくらも残らない。ことさら遠い村方ではこの
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