トの帆前船がまだ二艘しかできていません。一艘は函館丸。もう一艘の船の方は亀田丸《かめだまる》。高田屋嘉兵衛《たかだやかへえ》の呼び寄せた人で、豊治《とよじ》という船大工があれを造りましたがね。」
「先生は函館で船の世話までなさるんですか。」
「まあ、そんなものでさ。でも、こんな藪《やぶ》医者にかかっちゃかなわないなんて、函館の方の人は皆そう言っていましょうよ。」
 この「藪医者」には、そばに立って聞いている寛斎もうなった。
 入港した外国船を迎え顔な西洋人なぞが、いつのまにか寛斎らの周囲に集まって来た。波止場には九年母《くねんぼ》の店をひろげて売っている婆《ばあ》さんがある。そのかたわらに背中の子供をおろして休んでいる女がある。道中差《どうちゅうざし》を一本腰にぶちこんで、草鞋《わらじ》ばきのまま、何か資本《もとで》のかからない商売でも見つけ顔に歩き回っている男もある。おもしろい丸帽をかぶり、辮髪《べんぱつ》をたれ下げ、金入れらしい袋を背負《しょ》いながら、上陸する船客を今か今かと待ち受けているようなシナ人の両替商《りょうがえしょう》もある。
 見ると、定紋《じょうもん》のついた船印《ふなじるし》の旗を立てて、港の役人を乗せた船が外国船から漕《こ》ぎ帰って来た。そのあとから、二、三の艀《はしけ》が波に揺られながら岸の方へ近づいて来た。横浜とはどんなところかと内々想像して来たような目つきのもの、全く生《お》い立ちを異にし気質を異にしたようなもの、本国から来たもの、東洋の植民地の方から来たもの、それらの雑多な冒険家が無遠慮に海から陸《おか》へ上がって来た。いずれも生命《いのち》がけの西洋人ばかりだ。上陸するものの中にはまだ一人《ひとり》の婦人を見ない。中には、初めて日本の土を踏むと言いたそうに、連れの方を振り返るものもある。叔父《おじ》甥《おい》なぞの間柄かと見えて、迎えるものと迎えらるるものとが男同志互いに抱き合うのもある。その二人《ふたり》は、寛斎や瑞見の見ている前で、熱烈な頬《ほお》ずりをかわした。


 瑞見はなかなかトボケた人で、この横浜を見に来たよりも、実は牛肉の試食に来たと白状する。こんな注文を出す客のことで、あちこち引っぱり回されるのは迷惑らしい上に、案内者側の寛斎の方でもなるべく日のあるうちに神奈川へ帰りたかった。いつでも日の傾きかけるのを見ると、寛斎
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