奈川には奉行《ぶぎょう》組頭《くみがしら》もある、そういう役人の家よりもわざわざ牡丹屋のような古い旅籠屋《はたごや》を選んで微行で瑞見のやって来たことが寛斎をよろこばせた。あって見ると、思いのほか、年も若い。三十二、三ぐらいにしか見えない。
「きょうのお客さまは名高い人ですが、お目にかかって見ると、まだお若いかたのようですね。」
 と牡丹屋の亭主《ていしゅ》が寛斎の袖《そで》を引いて言ったくらいだ。
 翌日は寛斎と牡丹屋の亭主とが先に立って、江戸から来た三人をまず神奈川台へ案内し、黒い館門《やかたもん》の木戸を通って、横浜道へ向かった。番所のあるところから野毛山《のげやま》の下へ出るには、内浦に沿うて岸を一回りせねばならぬ。程《ほど》ヶ谷《や》からの道がそこへ続いて来ている。野毛には奉行の屋敷があり、越前《えちぜん》の陣屋もある。そこから野毛橋を渡り、土手通りを過ぎて、仮の吉田橋から関内《かんない》にはいった。
「横浜もさびしいところですね。」
「わたしの来た時分には、これよりもっとさびしいところでした。」
 瑞見と寛斎とは歩きながら、こんな言葉をかわして、高札場《こうさつば》の立つあたりから枯れがれな太田新田の間の新道を進んだ。
 瑞見は遠く蝦夷《えぞ》の方で採薬、薬園、病院、疏水《そすい》、養蚕等の施設を早く目論《もくろ》んでいる時で、函館の新開地にこの横浜を思い比べ、牡丹屋の亭主を顧みてはいろいろと土地の様子をきいた。当時の横浜関内は一羽の蝶《ちょう》のかたちにたとえられる。海岸へ築《つ》き出した二か所の波止場《はとば》はその触角であり、中央の運上所付近はそのからだであり、本町通りと商館の許可地は左右の翅《はね》にあたる。一番左の端にある遊園で、樹木のしげった弁天の境内《けいだい》は、蝶の翅に置く唯一の美しい斑紋《はんもん》とも言われよう。しかしその翅の大部分はまだ田圃《たんぼ》と沼地だ。そこには何か開港一番の思いつきででもあるかのように、およそ八千坪からの敷地から成る大規模な遊女屋の一郭もひらけつつある。横浜にはまだ市街の連絡もなかったから、一丁目ごとに名主を置き、名主の上に総年寄を置き、運上所わきの町会所で一切の用事を取り扱っていると語り聞かせるのも牡丹屋の亭主だ。
 やがて、その日同行した五人のものは横浜海岸通りの波止場に近いところへ出た。西洋の船になら
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