かされたと笑った。
「へい、いらっしゃい。」
 と佐吉は木訥《ぼくとつ》な調子で、その口調をまねて見せた。
「あのへい、いらっしゃいには、おれも弱った。そこへ立ちすくんでしまったに。」
 とまた佐吉は笑った。
「佐吉、江戸にもお別れだ。今夜は一緒に飯でもやれ。」
 と半蔵は言って、三人して宿屋の台所に集まった。夕飯の膳《ぜん》が出た。佐吉がそこへかしこまったところは、馬籠の本陣の囲炉裏ばたで、どんどん焚火《たきび》をしながら主従一同食事する時と少しも変わらない。十一屋では膳部も質素なものであるが、江戸にもお別れだという客の好みとあって、その晩にかぎり刺身《さしみ》もついた。木曾の山の中のことにして見たら、深い森林に住む野鳥を捕え、熊《くま》、鹿《しか》、猪《いのしし》などの野獣の肉を食い、谷間の土に巣をかける地蜂《じばち》の子を賞美し、肴《さかな》と言えば塩辛いさんまか、鰯《いわし》か、一年に一度の塩鰤《しおぶり》が膳につくのは年取りの祝いの時ぐらいにきまったものである。それに比べると、ここにある鮪《まぐろ》の刺身の新鮮な紅《あか》さはどうだ。その皿《さら》に刺身のツマとして添えてあるのも、繊細をきわめたものばかりだ。細い緑色の海髪《うご》。小さな茎のままの紫蘇《しそ》の実。黄菊。一つまみの大根おろしの上に青く置いたような山葵《わさび》。
「こう三人そろったところは、どうしても山の中から出て来た野蛮人ですね。」
 赤い襟《えり》を見せた給仕《きゅうじ》の女中を前に置いて、寿平次はそんなことを言い出した。
「こんな話があるで。」と佐吉も膝《ひざ》をかき合わせて、「木曾福島の山村様が江戸へ出るたびに、山猿《やまざる》、山猿と人にからかわれるのが、くやしくてしかたがない。ある日、口の悪い人たちを屋敷に招《よ》んだと思わっせれ。そこが、お前さま、福島の山村様だ。これが木曾名物の焼き栗《ぐり》だと言って、生《なま》の栗を火鉢《ひばち》の灰の中にくべて、ぽんぽんはねるやつをわざと鏃《やじり》でかき回したげな。」
「野性を発揮したか。」
 と寿平次がふき出すと、半蔵はそれを打ち消すように、
「しかし、寿平次さん、こう江戸のように開け過ぎてしまったら、動きが取れますまい。わたしたちは山猿でいい。」
 と言って見せた。
 食後にも三人は、互いの旅の思いを比べ合った。江戸の水茶屋には感
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