ると、奉行《ぶぎょう》その人ですら下役から監視されることをまぬかれなかった。それを押しひろげたような広大な天地が江戸だ。
半蔵らが予定の日取りもいつのまにか尽きた。いよいよ江戸を去る前の日が来た。半蔵としては、この都会で求めて行きたい書籍の十が一をも手に入れず、思うように同門の人も訪《たず》ねず、賀茂《かも》の大人《うし》が旧居の跡も見ずじまいであっても、ともかくも平田家を訪問して、こころよく入門の許しを得、鉄胤《かねたね》はじめその子息《むすこ》さんの延胤《のぶたね》とも交わりを結ぶ端緒《いとぐち》を得たというだけにも満足して、十一屋の二階でいろいろと荷物を片づけにかかった。
半蔵が部屋《へや》の廊下に出て見たころは夕方に近い。
「半蔵さん、きょうはひとりで町へ買い物に出て、それはよい娘を見て来ましたぜ。」
と言って寿平次は国への江戸土産にするものなぞを手にさげながら帰って来た。
「君にはかなわない。すぐにそういうところへ目がつくんだから。」
半蔵はそれを言いかけて、思わず顔を染めた。二人は宿屋の二階の欄《てすり》に身を倚《よ》せて、目につく風俗なぞを話し合いながら、しばらくそこに旅らしい時を送った。髪を結綿《ゆいわた》というものにして、紅《あか》い鹿《か》の子《こ》の帯なぞをしめた若いさかりの娘の洗練された風俗も、こうした都会でなければ見られないものだ。国の方で素枯《すが》れた葱《ねぎ》なぞを吹いている年ごろの女が、ここでは酸漿《ほおずき》を鳴らしている。渋い柿色《かきいろ》の「けいし」を小脇《こわき》にかかえながら、唄《うた》のけいこにでも通うらしい小娘のあどけなさ。黒繻子《くろじゅす》の襟《えり》のかかった着物を着て水茶屋の暖簾《のれん》のかげに物思わしげな女のなまめかしさ。極度に爛熟《らんじゅく》した江戸趣味は、もはや行くところまで行き尽くしたかとも思わせる。
やがて半蔵は佐吉を呼んだ。翌朝出かけられるばかりに旅の荷物をまとめさせた。町へは鰯《いわし》を売りに来た、蟹《かに》を売りに来たと言って、物売りの声がするたびにきき耳を立てるのも佐吉だ。佐吉は、山下町の方の平田家まで供をしたおりのことを言い出して、主人と二人で帰りの昼じたくにある小料理屋へ立ち寄ろうとしたことを寿平次に話した末に、そこの下足番《げそくばん》の客を呼ぶ声が高い調子であるには驚
前へ
次へ
全237ページ中93ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング