い》りの騒ぎだ。」
「そう言われると、一言《いちごん》もない。」
「さあ、このお天気続きでは、伊勢木《いせぎ》を出さずに済むまいぞ。」
 伊勢木とは、伊勢太神宮へ祈願をこめるための神木《しんぼく》をさす。こうした深い山の中に古くから行なわれる雨乞いの習慣である。よくよくの年でなければこの伊勢木を引き出すということもなかった。
 六月の六日、村民一同は鎌止《かまど》めを申し合わせ、荒町にある氏神の境内に集まった。本陣、問屋をはじめ、宿役人から組頭《くみがしら》まで残らずそこに参集して、氏神境内の宮林《みやばやし》から樅《もみ》の木一本を元伐《もとぎ》りにする相談をした。
「一本じゃ、伊勢木も足りまい。」
 と吉左衛門が言い出すと、金兵衛はすかさず答えた。
「や、そいつはわたしに寄付させてもらいましょう。ちょうどよい樅《もみ》が一本、吾家《うち》の林にもありますから。」
 元伐《もとぎ》りにした二本の樅には注連《しめ》なぞが掛けられて、その前で禰宜《ねぎ》の祈祷《きとう》があった。この清浄な神木が日暮れ方になってようやく鳥居の前に引き出されると、左右に分かれた村民は声を揚げ、太い綱でそれを引き合いはじめた。
「よいよ。よいよ。」
 互いに競い合う村の人たちの声は、荒町のはずれから馬籠の中央にある高札場《こうさつば》あたりまで響けた。こうなると、庄屋としての吉左衛門も骨が折れる。金兵衛は自分から進んで神木の樅を寄付した関係もあり、夕飯のしたくもそこそこにまた馬籠の町内のものを引き連れて行って見ると、伊勢木はずっと新茶屋の方まで荒町の百姓の力に引かれて行く。それを取り戻そうとして、三《み》つや表《おもて》から畳石《たたみいし》の辺で双方のもみ合いが始まる。とうとうその晩は伊勢木を荒町に止めて置いて、一同疲れて家に帰ったころは一番|鶏《どり》が鳴いた。


「どうもことしは年回りがよくない。」
「そう言えば、正月のはじめから不思議なこともありましたよ。正月の三日の晩です、この山の東の方から光ったものが出て、それが西南《にしみなみ》の方角へ飛んだといいます。見たものは皆驚いたそうですよ。馬籠《まごめ》ばかりじゃない、妻籠《つまご》でも、山口でも、中津川でも見たものがある。」
 吉左衛門と金兵衛とは二人《ふたり》でこんな話をして、伊勢木の始末をするために、村民の集まっているところ
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