きり別のものはよかった。」
炬燵話《こたつばなし》に夜はふけて行った。ひっそりとした裏山に、奈良井川の上流に、そこへはもう東木曾の冬がやって来ていた。山気は二人の身にしみて、翌朝もまた霜かと思わせた。
追分《おいわけ》の宿まで行くと、江戸の消息はすでにそこでいくらかわかった。同行三人のものは、塩尻《しおじり》、下諏訪《しもすわ》から和田峠を越え、千曲川《ちくまがわ》を渡って、木曾街道と善光寺道との交叉点《こうさてん》にあたるその高原地の上へ出た。そこに住む追分の名主《なぬし》で、年寄役を兼ねた文太夫《ぶんだゆう》は、かねて寿平次が先代とは懇意にした間柄で、そんな縁故から江戸行きの若者らの素通りを許さなかった。
名主文太夫は、野半天《のばんてん》、割羽織《わりばおり》に、捕繩《とりなわ》で、御領私領の入れ交《まじ》った十一か村の秣場《まぐさば》を取り締まっているような人であった。その地方にある山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどの見回りをしているような人であった。半蔵らはこの客好きな名主の家に引き留められて、佐久の味噌汁《みそしる》や堅い地大根《じだいこん》の沢庵《たくあん》なぞを味わいながら、赤松、落葉松《からまつ》の山林の多い浅間山腹がいかに郷里の方の谿《たに》と相違するかを聞かされた。曠野《こうや》と、焼け石と、砂と、烈風と、土地の事情に精通した名主の話は尽きるということを知らなかった。
しかし、そればかりではない。半蔵らが追分に送った一夜の無意味でなかったことは、思いがけない江戸の消息までもそこで知ることができたからで。その晩、文太夫が半蔵や寿平次に取り出して見せた書面は、ある松代《まつしろ》の藩士から借りて写し取って置いたというものであった。嘉永《かえい》六年六月十一日付として、江戸屋敷の方にいる人の書き送ったもので、黒船騒ぎ当時の様子を伝えたものであった。
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「このたび、異国船渡り来《きた》り候《そうろう》につき、江戸表はことのほかなる儀にて、東海道筋よりの早注進《はやちゅうしん》矢のごとく、よって諸国御大名ところどころの御堅め仰せ付けられ候。しかるところ、異国船|神奈川沖《かながわおき》へ乗り入れ候おもむき、御老中《ごろうじゅう》御屋敷へ注進あり。右につき、夜分急に御登城にて、それぞれ御下知《ごげち》仰せ付
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