きたいと、口癖のようにそう言っていました。まあ、あの親父の供養《くよう》にと思って、わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
そう言って見せる金兵衛の案内で、吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。碑の表面には左の文字が読まれた。
送られつ送りつ果《はて》は木曾の龝《あき》 はせを
「これは達者《たっしゃ》に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾《のぎ》へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜《かめ》でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅《はえ》としか読めない。」
こんな話の出たのも、一昔前《ひとむかしまえ》だ。
あれは天保十四年にあたる。いわゆる天保の改革の頃で、世の中建て直しということがしきりに触れ出される。村方一切の諸帳簿の取り調べが始まる。福島の役所からは公役、普請役《ふしんやく》が上って来る。尾張藩の寺社《じしゃ》奉行《ぶぎょう》、または材木方の通行も続く。馬籠の荒町《あらまち》にある村社の鳥居《とりい》のために檜木《ひのき》を背伐《せぎ》りしたと言って、その始末書を取られるような細かい干渉がやって来る。村民の使用する煙草《たばこ》入《い》れ、紙入れから、女のかんざしまで、およそ銀という銀を用いた類《たぐい》のものは、すべて引き上げられ、封印をつけられ、目方まで改められて、庄屋《しょうや》預けということになる。それほど政治はこまかくなって、句碑一つもうっかり建てられないような時世ではあったが、まだまだそれでも社会にゆとりがあった。
翁塚の供養はその年の四月のはじめに行なわれた。あいにくと曇った日で、八《や》つ半時《はんどき》より雨も降り出した。招きを受けた客は、おもに美濃の連中で、手土産《てみやげ》も田舎《いなか》らしく、扇子に羊羹《ようかん》を添えて来るもの、生椎茸《なまじいたけ》をさげて来るもの、先代の好きな菓子を仏前へと言ってわざわざ玉あられ一箱用意して来るもの、それらの人たちが金兵衛方へ集まって見た時は、国も二つ、言葉の訛《なま》りもまた二つに入れまじった。その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿|落合《おちあい》の宗匠、崇佐坊《すさぼう》も招かれて来た。この人の世話で、美濃派の俳席らしい支考《しこう》の『三※[#「兆+頁」、第3水準1−93−89]《さんちょう
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