られることになったのも、その時だ。その中の十人は金兵衛が預かった。馬籠《まごめ》の宿役人や組頭《くみがしら》としてこれが見ていられるものでもない。福島の役人たちが湯舟沢村の方へ引き揚げて行った後で、「お叱り」のものの赦免せられるようにと、不幸な村民のために一同お日待《ひまち》をつとめた。その時のお札は一枚ずつ村じゅうへ配当した。
 この出来事があってから二十日《はつか》ばかり過ぎに、「お叱り」のものの残らず手錠を免ぜられる日がようやく来た。福島からは三人の役人が出張してそれを伝えた。
 手錠を解かれた小前《こまえ》のものの一人《ひとり》は、役人の前に進み出て、おずおずとした調子で言った。
「畏《おそ》れながら申し上げます。木曾は御承知のとおりな山の中でございます。こんな田畑もすくないような土地でございます。お役人様の前ですが、山の林にでもすがるよりほかに、わたくしどもの立つ瀬はございません。」

       四

 新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、その路傍《みちばた》に芭蕉《ばしょう》の句塚《くづか》の建てられたころは、なんと言っても徳川の代《よ》はまだ平和であった。
 木曾路の入り口に新しい名所を一つ造る、信濃《しなの》と美濃《みの》の国境《くにざかい》にあたる一里|塚《づか》に近い位置をえらんで街道を往来する旅人の目にもよくつくような緩慢《なだらか》な丘のすそに翁塚《おきなづか》を建てる、山石や躑躅《つつじ》や蘭《らん》などを運んで行って周囲に休息の思いを与える、土を盛りあげた塚の上に翁の句碑を置く――その楽しい考えが、日ごろ俳諧《はいかい》なぞに遊ぶと聞いたこともない金兵衛の胸に浮かんだということは、それだけでも吉左衛門を驚かした。そういう吉左衛門はいくらか風雅の道に嗜《たしな》みもあって、本陣や庄屋の仕事のかたわら、美濃派の俳諧の流れをくんだ句作にふけることもあったからで。
 あれほど山里に住む心地《こころもち》を引き出されたことも、吉左衛門らにはめずらしかった。金兵衛はまた石屋に渡した仕事もほぼできたと言って、その都度《つど》句碑の工事を見に吉左衛門を誘った。二人とも山家風《やまがふう》な軽袗《かるさん》(地方により、もんぺいというもの)をはいて出かけたものだ。
「親父《おやじ》も俳諧は好きでした。自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置
前へ 次へ
全237ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング