並木
島崎藤村
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)怠《なまけ》る
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)九年位|提《さ》げている
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)白い※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]子
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近頃相川の怠《なまけ》ることは会社内でも評判に成っている。一度弁当を腰に着けると、八年や九年位|提《さ》げているのは造作も無い。齷齪《あくせく》とした生涯《しょうがい》を塵埃《ほこり》深い巷《ちまた》に送っているうちに、最早《もう》相川は四十近くなった。もともと会社などに埋《うずも》れているべき筈《はず》の人では無いが、年をとった母様《おふくろ》を養う為には、こういうところの椅子にも腰を掛けない訳にいかなかった。ここは会社と言っても、営業部、銀行部、それぞれあって、先《ま》ず官省《やくしょ》のような大組織。外国文書の飜訳《ほんやく》、それが彼の担当する日々《にちにち》の勤務《つとめ》であった。足を洗おう、早く――この思想《かんがえ》は近頃になって殊《こと》に烈《はげ》しく彼の胸中を往来する。その為に深夜《よふけ》までも思い耽《ふけ》る、朝も遅くなる、つい怠り勝に成るような仕末。彼は長い長い腰弁生活に飽き疲れて了った。全くこういうところに縛られていることが相川の気質に適《む》かないのであって、敢《あえ》て、自ら恣《ほしいまま》にするのでは無い、と心を知った同僚は弁護してくれる。「相川さん、遅刻届は活版|摺《ずり》にしてお置きなすったら、奈何《いかが》です」などと、小癪《こしゃく》なことを吐《ぬか》す受付の小使までも、心の中では彼の貴い性質を尊敬して、普通の会社員と同じようには見ていない。
日本橋呉服町に在る宏壮《おおき》な建築物《たてもの》の二階で、堆《うずたか》く積んだ簿書の裡《うち》に身を埋《うず》めながら、相川は前途のことを案じ煩《わずら》った。思い疲れているところへ、丁度小使が名刺を持ってやって来た。原としてある。原は金沢の学校の方に奉職していて、久し振で訪ねて来た。旧友――という人は数々ある中にも、この原、乙骨《おつこつ》、永田、それから高瀬なぞは、相川が若い時から互いに往来した親しい間柄だ。永田は遠からず帰朝すると言うし、高瀬は山の中から出て来たし、いよいよ原も家を挙げて出京するとなれば、連中は過ぐる十年間の辛酸を土産《みやげ》話にして、再び東京に落合うこととなる。不取敢《とりあえず》、相川は椅子を離れた。高く薄暗い灰色の壁に添うて、用事ありげな人々と摩違《すれちが》いながら、長い階段を下りて行った。
原は応接室に待っていた。
「君の出て来ることは、乙骨からも聞いたし、高瀬からも聞いた」と相川は馴々《なれなれ》しく、「時に原君、今度は細君も御一緒かね」
「いいえ」と原はすこし改まったような調子で、「僕一人で出て来たんです。種々《いろいろ》都合があって、家《うち》の者は彼地《あっち》に置いて来ました。それにまだ荷物も置いてあるしね――」
「それじゃ、君、もう一度金沢へ帰らんけりゃなるまい」
「ええ、帰って、家を片付けて、それから復《ま》た出て来ます」
「そいつは大変だね。何しろ、家を移すということは容易じゃ無いよ――加之《おまけ》に遠方と来てるからなあ」
相川は金縁の眼鏡を取除《とりはず》して丁寧に白い※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]子《ハンケチ》で拭《ふ》いて、やがてそれを掛添えながら友達の顔を眺《なが》めた。
「相川君、まだ僕は二三日東京に居る積りですから、いずれ御宅の方へ伺うことにしましょう」こう原は言出した。「いろいろ御話したいこともある」
「では、君、こうしてくれ給え。明日|午前《ひるまえ》に僕の家へやって来てくれ給え。久し振でゆっくり話そう」
「明日?」と原はいぶかしそうに、「明日は君、土曜――会社があるじゃないか」
「ナニ、一日位休むサ」
「そんなことをしても可《い》いんですか、会社の方は」
「構わないよ」
「じゃあ、そうしようかね。明日は御邪魔になりに伺うとしよう。久し振で僕も出て来たものだから、電車に乗っても、君、さっぱり方角が解らない。小川町から九段へかけて――あの辺は恐しく変ったね。まあ東京の変ったのには驚く。実に驚く。八年ばかり金沢に居る間に、僕はもうすっかり田舎《いなか》者に成っちゃった」
「そうさ、八年といえばやがて一昔だ。すこし長く居過ぎた気味はあるね」
と言われて、原は淋《さび》しそうに笑っていた。有体《ありてい》に言えば、原は金沢の方を辞《や》めて了ったけれども、都会へ出て来て未だこれという目的《めあて》
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