た。
「田舎に長く居過ぎた故《せい》だ」こう言って見たのである。
古本を猟《あさ》ることはこの節彼が見つけた慰藉《なぐさみ》の一つであった。これ程|費用《ついえ》が少くて快楽《たのしみ》の多いものはなかろう、とは持論である。その日も例のように錦町《にしきちょう》から小川町の通りへ出た。そこここと尋ねあぐんで、やがてぶらぶら裏|神保町《じんぼうちょう》まで歩いて行くと、軒を並べた本屋町が彼の眼前《めのまえ》に展《ひら》けた。あらゆる種類の書籍が客の眼を引くように飾ってある。棚曝《たなざら》しになった聖賢の伝記、読み捨てられた物語、獄中の日誌、世に忘れられた詩歌もあれば、酒と女と食物《くいもの》との手引草もある。今日までの代の変遷《うつりかわり》を見せる一種の展覧会、とでも言ったような具合に、あるいは人間の無益な努力、徒《いたずら》に流した涙、滅びて行く名――そういうものが雑然《ごちゃごちゃ》陳列してあるかのように見えた。諸方《ほうぼう》の店頭《みせさき》には立《たっ》て素見《ひやか》している人々もある。こういう向の雑書を猟ることは、尤《もっと》も、相川の目的ではなかったが、ある店の前に立って見渡しているうちに、不図眼に付いたものがあった。何気なく取上げて、日に晒《さら》された表紙の塵埃《ほこり》を払って見る。紛《まがい》も無い彼自身の著書だ。何年か前に出版したもので、今は版元でも品切に成っている。貸失《かしなく》して彼の手許《てもと》にも残っていない。とにかく一冊出て来た。それを買って、やがて相川はその店を出た。雨はポツポツ落ちて来た。家へ帰ってから読むつもりであったのを、その晩は青木という大学生に押掛けられた。割合に蚊の居ない晩で、二人で西瓜《すいか》を食いながら話した。はじめて例の著書が出版された当時、ある雑誌の上で長々と批評して、「ツルゲネエフの情緒あって、ツルゲネエフの想像なし」と言ったのは、この青木という男である。青木は八時頃に帰った。それから相川は本を披《あ》けて、畳の上に寝ころびながら読み初めた。種々《いろいろ》なことが出て来る。原や高瀬なぞの友達のこともある。何処へ嫁《かたづ》いてどうなったかと思うような人々のこともある。
「人は何事にても或事を成さば可なりと信ず。されどその或事とは何ぞや。われはそを知らむことを求む、されど未だ見出し得ず。さらば、斯
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