が無い。この度の出京はそれとなく職業を捜す為でもある。不安の念は絶えず原の胸にあった。
「では失礼します。君も御多忙《おいそがしい》でしょうから」原は帽子を執って起立《たちあが》った。「いずれ――明日――」
「まあ、いいじゃないか」と相川は眉を揚げて、自分で自分の銷沈《しょうちん》した意気を励ますかのように見えた。煙草好きな彼は更に新しい紙巻を取出して、それを燻《ふか》して見せて、自分は今それほど忙しくないという意味を示したが、原の方ではそうも酌《と》らなかった。
「乙骨君は近頃なかなか壮《さか》んなようだねえ」
と不図思出したように、原は戸口のところに立って尋ねた。
「乙骨かい」と相川は受けて、「乙骨は君、どうして」
「何卒《どうぞ》、御逢いでしたら宜《よろ》しく」
「ああ」
※[#「つつみがまえ>夕」、第3水準1−14−76]々《そこそこ》にして原は出て行った。
その日は、人の心を腐らせるような、ジメジメと蒸暑い八月上旬のことで、やがて相川も飜訳の仕事を終って、そこへペンを投出《ほうりだ》した頃は、もう沮喪《がっかり》して了った。いつでも夕方近くなると、無駄に一日を過したような後悔の念が湧《わ》き上って来る。それがこの節相川の癖のように成っている。「今日は最早《もう》仕方が無い」――こう相川は独語《ひとりごと》のように言って、思うままに一日の残りを費そう、と定《き》めた。
沈鬱な心境を辿《たど》りながら、彼は飯田町六丁目の家の方へ帰って行った。途々《みちみち》友達のことが胸に浮ぶ。確に老《ふ》けた。朝に晩に逢う人は、あたかも住慣れた町を眺《なが》めるように、近過ぎて反《かえ》って何の新しい感想《かんじ》も起らないが、稀《たま》に面《かお》を合せた友達を見ると、実に、驚くほど変っている。高瀬という友達の言草ではないが、「人間に二通りある――一方の人はじりじり年をとる。他方《かたいっぽ》の人は長い間若くていて急にドシンと陥没《おっこ》ちる」相川は今その言葉を思出して、原をじりじり年をとる方に、自分をドシンと陥没ちる方に考えて見て笑ったが、然し友達もああ変っていようとは思いがけなかった。原ともあろうものが今から年をとってどうする、と彼は歩きながら嘆息した。実際相川はまだまだ若いつもりでいる。彼は、久し振で出て来た友達のことを考えて、歯癢《はがゆ》いような気がし
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