か》いたという幾枚かの習作の油絵を提《さ》げて出て来たが、元気も相変わらずだ。亡くなった本郷の甥とは同《おな》い年齢《どし》にも当たるし、それに幼い時分の遊び友だちでもあったので、その告別式には次郎が出かけて行くことになった。
「若くて死ぬのはいちばんかわいそうだね。」
と、私は言って、新しい仏への菓子折りなぞを取り寄せた。私はまた、次郎や末子の見ているところでこころざしばかりの金を包み、黒い水引きを掛けながら、
「いくら不景気の世の中でも、二円の香奠《こうでん》は包めなくなった。お前たちのかあさんが達者《たっしゃ》でいた時分には、二円も包めばそれでよかったものだよ。」
と言ってみせた。
次郎はもはや父の代理もできるという改まった顔つきで出かけて行った。日ごろ人なつこく物に感じやすい次郎がその告別式から引き返して来た時は、本郷の親戚《しんせき》の家のほうに集まっていた知る知らぬ人々、青山からだれとだれ、新宿からだれというふうに、旧知のものが並んですわっているところで、ある見知らぬ婦人から思いがけなく声を掛けられたという話を持って帰って来た。
「どなたでございますか。」
「いやな次郎ちゃん、わたしを忘れちまったの?」
これは二人《ふたり》の人の挨拶《あいさつ》のように聞こえるが、次郎は一人《ひとり》でそれを私たちにやって見せた。
「いやな次郎ちゃん――だとサ。」
と、また次郎が妹に、その婦人の口まねをして見せた。それを聞くと、末子はからだもろとも投げ出すような娘らしい声を出して、そこへ笑いころげた。
どうしてその婦人のことが、こんなに私たちの間にうわさに上《のぼ》ったかというに、十八年も前に亡《な》くなった私の甥《おい》の一人の配偶《つれあい》で、私の子供たちから言えば母《かあ》さんの友だちであったからで。かつみさんといって、あの甥の達者《たっしゃ》な時分には親しくした人だ。あの甥は土屋《つちや》という家に嫁《とつ》いだ私の実の姉の一人息子《ひとりむすこ》にあたっていて、年も私とは三つしか違わなかった。甥というよりは、弟に近かった。それに、次郎や末子の生まれた家と、土屋の甥のしばらく住んでいた家とは、歩いて通えるほど近い同じ隅田川《すみだがわ》のほとりにあったから、そんな関係から言っても以前にはよく往来した間がらである。次郎のちいさな時分には、かつみさんも母さんのところへよく遊びに来て、長火鉢《ながひばち》のそばで話し込んだものである。この母さんの友だちですら、次郎が今あって見てはわからないくらいになってしまった。
間もなくかつみさんは青山の姪《めい》と連れだって、私の家へ訪《たず》ねて来た。私がこの旧知の女の客を迎えるのは十七年ぶりにもなる。あまりに久しぶりでの対面で、私はかつみさんの顔を見つめるともなく見つめて、言葉も容易には口に出せなかった。私たちは互いに顔の形からして変わっていた。
かつみさんも今では土屋でなしに、他の姓を名乗っている人だ。結婚は二度とも不幸に終わって、今は三度目の家庭に落ちついていると聞く人だ。この薄命な、しかしねばり強い人が、どれほどのこの世の辛酸《しんさん》を経たあとで、今の静かな生活にはいったか、私もそうくわしいことを知らない。かつみさんは、私の子供たちを見に来たいと思いながら今までそのおりもなかったこと、ようやく青山の姪《めい》に連れられて来たことなぞを私に話した。
「次郎ちゃんたちのかあさんが今まで達者でいたら、幾つになっていましょう。」
私がこんなことを言い出したのは、あの母さんとかつみさんといくつも年の違わなかったことを覚えているからで。
「叔母《おば》さんですか。ことしで、ちょうどにおなりのはずですよ。」
かつみさんの口から出て来る話は、昔ながらの「叔父《おじ》さん、叔母さん」だ。その時、青山の姪はかつみさんの「ちょうど」を聞きとがめて、
「ちょうどと言いますと――」
「五十ですよ。」
この「五十」が私を驚かした。私は自分の年とったことも忘れて、あの母さんがきょうまでぴんぴんしているとしたら、もうそんな婆《ばあ》さんか、と想《おも》ってみた。
母さんの旧《ふる》い友だちが十七年ぶりで私たちの家へ訪《たず》ねて来たというは、次郎に取っても心の驚きであったらしい。次郎は今さらのように、亡《な》くなった母さんをさがすかの面持《おももち》で、しきりに私たちの話に耳を傾けていた。私が自分の部屋《へや》を片づけ、狭い四畳半のまん中に小さな机を持ち出し、平素めったに取り出したことのないフランスみやげの茶卓掛けなぞをその上にかけ、その水色の織り模様だけでも部屋の内を楽しくして珍客をもてなそうとしたころは、末子も学校のほうから帰って来た。末子は女学生風の校服のまま青山の姪のうしろ
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