分配
島崎藤村
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)亡《な》くなった母《かあ》さんを
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)末子|一人《ひとり》だけが
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#天から3字下げ]太郎へ
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四人もある私の子供の中で、亡《な》くなった母《かあ》さんを覚えているものは一人《ひとり》もない。ただいちばん上の子供だけが、わずかに母さんを覚えている。それもほんの子供心に。ようやくあの太郎が六歳ぐらいの時分の幼い記憶で。
母さんを記念するものも、だんだんすくなくなって、今は形見《かたみ》の着物一枚残っていない。古い鏡台古い箪笥《たんす》、そういう道具の類ばかりはそれでも長くあって、毎朝私の家の末子《すえこ》が髪をとかしに行くのもその鏡の前であるが、長い年月と共に、いろいろな思い出すらも薄らいで来た。
あの母さんの時代も、そんなに遠い過去になった。それもそのはずである。太郎や次郎はもとより、三郎までもめきめきとおとなびて来て、縞《しま》の荒い飛白《かすり》の筒袖《つつそで》なぞは着せて置かれなくなったくらいであるから。
目に見えて四人の子供には金もかかるようになった。
「お前たちはもらうことばかり知っていて、くれることを知ってるのかい。」
私はよくこんな冗談を言って、子供らを困らせることがある。子供、子供と私は言うが、太郎や次郎はすでに郷里の農村のほうで思い思いに働いているし、三郎はまた三郎で、新しい友だち仲間の結びつきができて、思う道へと踏み出そうとしていた。それには友だちの一人と十五円ずつも出し合い、三十円ばかりの家を郊外のほうに借りて、自炊生活を始めたいと言い出した。敷金《しききん》だけでも六十円はかかる。最初その相談が三郎からあった時に、私にはそれがお伽噺《とぎばなし》のようにしか思われなかった。
私は言った。
「とうさんも若い時分に自炊をした経験がある。しまいには三度三度煮豆で飯を食うようになった。自炊もめんどうなものだぞ。お前たちにそれが続けられるかしら。」
私としては、もっとこの子を自分の手もとに置いて、できるだけしたくを長くさせ、窮屈な思いを忍んでもらいたかったが、しかしこういう日のいつかやって来るだろうとは自分の予期していたことでもある。それがすこし早くやって来たというまでだ。それに気質の合わないことが次第によくわかって来た兄妹《きょうだい》をこんな狭い巣のようなところに無理に一緒に置くことの弊害をも考えた。何も試みだ、とそう考えた。私は三郎ぐらいの年ごろに小さな生活を始めようとした自分の若かった日のことを思い出して現に私から離れて行こうとしている三郎の心をいじらしくも思った。
この三郎を郊外のほうへ送り出すために、私たちの家では半分引っ越しのような騒ぎをした。三郎の好みで、二枚の座ぶとんの更紗《さらさ》模様も明るい色のを造らせた。役に立つか立たないかしれないような古い椅子《いす》や古い時計の家にあったのも分けた。持たせてやるものも、ないよりはまだましだぐらいの道具ばかり、それでも集めて、荷物にして見れば、洗濯《せんたく》したふとんから何からでは、おりから白く町々を埋《うず》めた春先の雪の路《みち》を一台の自動車で運ぶほどであった。
その時になって見ると、三人の兄弟《きょうだい》の子供は順に私から離れて行って、末子|一人《ひとり》だけが私のそばに残った。三郎を送り出してからは、にわかに私たちの家もひっそりとして、食卓もさびしかった。私は娘と婆《ばあ》やを相手に日を暮らすようになったが、次第に私の生活は変わって行くように見えた。巣から分かれる蜂《はち》のように、いずれ末子も兄たちのあとを追って、私から離れて行く日が来る。これはもはや、時の問題であるように見えた。私は年老いて孤独な自分の姿を想像で胸に浮かべるようになった。
しかし、これはむしろ私の望むところであった。私か、私は三十年一日のような著作生活を送って来たものに過ぎない。世には七十いくつの晩年になって、まだ生活を単純にすることを考え、家からも妻子からもいっさいの財産からものがれ、全くの一人となろうとした人もあったと聞くが、早く妻を先立《さきだ》てた私はそれと反対に、自分は家にとどまりながら成長する子供を順に送り出して、だんだん一人になるような道を歩いて来た。
私の周囲へはすでに幾度か死が訪れて来た。最近にもまた本郷《ほんごう》の若い甥《おい》の一人がにわかに腎臓炎で亡《な》くなったという通知を受けた。ちょうど、私の家では次郎が徴兵適齢に当たって、本籍地の東京で検査を受けるために郷里のほうから出て来ていた時であった。次郎も兄の農家を助けながら描《
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