へ来て静かにすわった。いくらかきまりわるげに、初めてあう客に挨拶《あいさつ》した。
「これが末ちゃんですか。」と、かつみさんは涙ぐまないばかりのなつかしそうな調子で言った。「まあ、叔母さんにそっくりですこと。」
「どうです、私の子供も大きくなりましたろう。」
「ほんとに。あの叔母さんがお達者でいらしって、今の末ちゃんたちを御覧なすったら、どんなでしょう。」
 土屋の甥《おい》の亡《な》くなったは、私の子供らの母さんが亡くなったのと同じ年にあたる。あの母さんが三十三、甥が三十七で没した。かつみさんの前ではあったが、つい私は甥のことなぞを言い出した。
「妙なものですね。三十台で亡くなった人は、いつまでも三十台でいるような気がしますね。その人が五十いくつになるとは、どうしても思われませんね。」
「でも、叔父さん、早く亡くなったものがいちばんつまりませんよ。長く生きていれば、こうしてまた叔父さんにお目にかかれるような日もまいりますもの。」
 その日はこんな話が尽きなかった。
 私の五十六という年もむなしく過ぎて行きかけていた。かつみさんのような人が訪《たず》ねて来てくれてもあの土屋の甥や子供らの母さんが達者でいたころのようには話せなかった。ただただ私たちはそういう昔もあったことを考えて、互いに遠く来たことも思った。

 不景気、不景気と言いながら、諸物価はそう下がりそうにもないころで、私の住む谷間のような町には毎日のように太鼓の音が起こった。何々教とやらの分社のような家から起こって来るもので、冷たい不景気の風が吹き回せば回すほど、その音は高く響けて来た。欲と、迷信と、生活難とから、拝んでもらいに行く人たちも多いという。その太鼓の音は窪《くぼ》い谷間の町の空気に響けて、私の部屋《へや》の障子《しょうじ》にまで伝わって来ていた。
 私たちの家の入り口へ来て立つような貧困者も多くなった。きのうは一人《ひとり》来た。きょうは二人《ふたり》来たというふうに、困って来る人がどれほどあるかしれない。震災後は働きたいにも仕事がないと言って救いを求めるもの、私たちの家へ来るまでに二日《ふつか》も食わなかったというもの、そういう人たちを見るたびに私は自分の腰に巻きつけた帯の間から蝦蟇口《がまぐち》を取り出して金を分けることもあり、自分の部屋の押入れから古本を取り出して来て持たせてやることもある
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