。中にはそういう物乞《ものご》いに慣れ、逆に社会の不合理を訴え、やる瀬のない憤りを残して置いて行くような人々も少なくない。私は自分に都合のできるだけの金をそういう人々の前に置き、
「まっこと困ったら、来たまえ。」
と、よく言い添えた。そして、それらの人々が帰って行ったあとで、年も若く見たところも丈夫そうな若者が、私ごとき病弱な、しかも年とったもののところへ救いを求めに来るような、その社会の矛盾に苦しんだ。正義が顕《あらわ》れて、大きな盗賊やみじめな物乞いが出た。
私たちの家の婆《ばあ》やは、そういう時の私の態度を見ると、いつでも憤慨した。毎月働いても十八円の給金にしかならないと言いたげなこの婆やは、見ず知らずの若者が私のところから持って行く一円、二円の金を見のがさなかった。
そういう私たちの家では、明日《あす》の米もないような日がこれまでなかったというまでで、そう余裕のある生活を送って来たわけではない。子供らが大きくなればなるほど金がかかって来て、まだ太郎の家のほうは毎月三十円ずつ助《す》けているし、太郎の家で使っている婆さんの給金も私のほうから払っているし、三郎が郊外に自炊生活を始めてからは、そちらのほうにも毎月六十円はかかった。次郎や末子というものも控えていた。私も骨が折れる。でも、私は子供らと一緒に働くことを楽しみにして、どんなに離れて暮らしていても、その考えだけは一日も私の念頭を去らなかった。
思いもよらない収入のある話が、この私の前に提供されるようになった。
私たちの著作を叢書《そうしょ》の形に集めて、予約でそれを出版することは、これまでとても書肆《しょし》によって企てられないではなかった。ある社で計画した今度の新しい叢書は著作者の顔触れも広く取り入れてあるもので、その中には私の先輩の名も見え、私の友だちの名も見えるが、菊版三段組み、六号活字、総振り仮名付きで、一冊三四百ぺージもあるものを思い切った安い定価で予約応募者にわかとうというのであった。私たちはその特筆大書した定価の文字を新聞紙上の広告欄にも、書籍小売店の軒先にも、市中を練り歩く広告夫の背中にまで見つけた。この思い切った宣伝が廉価出版の気勢を添えて、最初の計画ではせいぜい二三万のものだろうと言われていたのが、いよいよ蓋《ふた》をあけて見るとその十倍もの意外に多数な読者がつくことになった
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