尋ねて見る。
『別に変りましたことも御座ませんけれど、』とお志保は萎《しを》れて、『今日は何《なんに》も頂きたくないと言つて、お粥《かゆ》を少許《ぽつちり》食べましたばかり――まあ、朝から眠りつゞけなんで御座ますよ。彼様《あんな》に眠るのが奈何《どう》でせうかしら。』
『何しろ其は御心配ですなあ。』
『どうせ長保《ながも》ちは有《あり》ますまいでせうよ。』とお志保は溜息を吐いた。『瀬川さんにも種々《いろ/\》御世話様には成ましたが、医者ですら見込が無いと言ふ位ですから――』
 斯う言つて、癖のやうに鬢《びん》の毛を掻上げた。
『実に、人の一生はさま/″\ですなあ。』と銀之助はお志保の境涯《きやうがい》を思ひやつて、可傷《いたま》しいやうな気に成つた。『温い家庭の内に育つて、それほど生活の方の苦痛《くるしみ》も知らずに済《す》む人もあれば、又、貴方のやうに、若い時から艱難《かんなん》して、其|風波《なみかぜ》に搓《も》まれて居るなかで、自然と性質を鍛《きた》へる人もある。まあ、貴方なぞは、苦んで、闘つて、それで女になるやうに生れて来たんですなあ。左様《さう》いふ人は左様いふ人で、他《ひと》の知らない悲しい日も有るかはりに、また他の知らない楽しい日も有るだらうと思ふんです。』
『楽しい日?』とお志保は寂しさうに微笑《ほゝゑ》み乍ら、『私なぞに其様《そん》な日が御座ませうかしら。』
『有ますとも。』と銀之助は力を入れて言つた。
『ほゝゝゝゝ――是迄《これまで》のことを考へて見ましても、其様な日なぞは参りさうも御座ません。まあ、私が貰はれて行きさへしませんければ、蓮華寺の母だつても彼様《あん》な思は為ずに済みましたのでせう。彼母を置いて出ます前には、奈何《どんな》に私も――』
『左様でせうとも。其は御察し申します。』
『いえ――私はもう死んで了《しま》ひましたも同じことなんで御座ます――唯《たゞ》、人様の情を思ひますものですから、其を力に……斯《か》うして生きて……』
『あゝ、瀬川君のも苦しい境遇だが、貴方のも苦しい境遇だ。畢竟《つまり》貴方が其程苦しい目に御逢《おあ》ひなすつたから、それで瀬川君の為にも哭《な》いて下さるといふものでせう。実は――僕は、あの友達を助けて頂きたいと思つて、斯うして貴方に御話して居るやうな訳ですが――』
『助けろと仰ると?』お志保の眸《ひとみ》は急に燃え輝いたのである。『私の力に出来ますことなら、奈何《どん》なことでも致しますけれど。』
『無論出来ることなんです。』
『私に?』
 暫時《しばらく》二人は無言であつた。
『いつそ有の儘を御話しませう。』と銀之助は熱心に言出した。『丁度学校で宿直の晩のことでした。僕が瀬川君の意中を叩いて見たのです。其時僕の言ふには、「君のやうに左様《さう》独りで苦んで居ないで、少許《すこし》打明けて話したら奈何《どう》だ。あるひは僕見たやうな殺風景なものに話したつて解らない、と君は思ふかも知れない。しかし、僕だつて、其様《そん》な冷《つめた》い人間ぢや無いよ。まあ、僕に言はせると、あまり君は物を煩《むづか》しく考へ過ぎて居るやうに思はれる。友達といふものも有つて見れば、及ばず乍ら力に成るといふことも有らうぢやないか。」斯《か》う言ひました。すると、瀬川君は始めて貴方のことを言出して――「むゝ、君の察して呉れるやうなことがあつた。確かに有つた。しかし其人は最早《もう》死んで了つたものと思つて呉れたまへ。」斯う言ふぢや有ませんか。噫――瀬川君は自分の素性を考へて、到底及ばない希望《のぞみ》と絶念《あきら》めて了《しま》つたのでせう。今はもう人を可懐《なつか》しいとも思はん――是程悲しい情愛が有ませうか。それで瀬川君は貴方のところへ来て、今迄|蔵《つゝ》んで居た素性を自白したのです。そこです――もし貴方に彼《あ》の男の真情《こゝろもち》が解りましたら、一つ助けてやらうといふ思想《かんがへ》を持つて下さることは出来ますまいか。』
『まあ、何と申上げて可《いゝ》か解りませんけれど――』とお志保は耳の根元までも紅《あか》くなつて、『私はもう其積りで居りますんですよ。』
『一生?』と銀之助はお志保の顔を熟視《まも》り乍ら尋ねた。
『はあ。』
 このお志保の答は銀之助の心を驚したのである。愛も、涙も、決心も、すべて斯《こ》の一息のうちに含まれて居た。

       (四)

 兎《と》も角《かく》も是事《このこと》を話して友達の心を救はう。市村弁護士の宿へ行つて見た様子で、復《ま》た後の使にやつて来よう。斯う約束して、軈《やが》て銀之助は炉辺を離れようとした。
『あの、御願ひで御座ますが――』とお志保は呼留めて、『もし「懴悔録」といふ御本が御座ましたら、貸して頂く訳にはまゐりますまいか。まあ、私なぞが拝見したつて、どうせ解りはしますまいけれど。』
『「懴悔録」?』
『ホラ、猪子さんの御書きなすつたとかいふ――』
『むゝ、あれですか。よく貴方は彼様《あん》な本を御存じですね。』
『でも、瀬川さんが平素《しよつちゆう》読んでいらつしやいましたもの。』
『承知しました。多分瀬川君の許《ところ》に有ませうから、行つて話して見ませう――もし無ければ、何処《どこ》か捜《さが》して見て、是非一冊贈らせることにしませう。』
 斯う言つて、銀之助は弁護士の宿を指して急いだ。
 丁度扇屋では人々が蓮太郎の遺骸《なきがら》の周囲《まはり》に集つたところ。親切な亭主の計ひで、焼場の方へ送る前に一応亡くなつた人の霊魂《たましひ》を弔《とむら》ひたいといふ。読経《どきやう》は法福寺の老僧が来て勤めた。其日の午後東京から着いたといふ蓮太郎の妻君――今は未亡人――を始め、弁護士、丑松もかしこまつて居た。旅で死んだといふことを殊《こと》にあはれに思ふかして、扇屋の家の人もかはる/″\弔ひに来る。縁もゆかりも無い泊客ですら、其と聞伝へたかぎりは廊下に集つて、寂しい木魚の音に耳を澄すのであつた。
 焼香も済み、読経も一きりに成つた頃、銀之助は丑松の紹介《ひきあはせ》で、始めて未亡人に言葉を交した。長野新聞の通信記者なぞも混雑《とりこみ》の中へ尋ねて来て、聞き取つたことを手帳に書留める。
『貴方が奥様《おくさん》でいらつしやいますか。』と記者は職掌柄らしい調子で言つた。
『はい。』と未亡人の返事。
『奥様、誠に御気の毒なことで御座ます。猪子先生の御名前は予《かね》て承知いたして居りまして、蔭乍《かげなが》ら御慕ひ申して居たのですが――』
『はい。』
 斯《か》ういふ挨拶はすべて追憶《おもひで》の種であつた。人々の談話《はなし》は蓮太郎のことで持切つた。軈《やが》て未亡人は夫と一緒に信州へ来た当時のことを言出して、別れる前の晩に不思議な夢を見たこと、妙に夫の身の上が気に懸つたこと、其を言つて酷《ひど》く叱られたことなぞを話した。彼是を思合せると、彼時《あのとき》にもう夫は覚期《かくご》して居ることが有つたらしい――信州の小春は好いの、今度の旅行は面白からうの、土産《みやげ》はしつかり持つて帰るから家へ行つて待つて居れの、まあ彼《あれ》が長の別離《わかれ》の言葉に成つて了《しま》つた。斯う言つて、思ひがけない出来事の為に飛んだ迷惑を人々に懸けた、とかへす/″\気の毒がる。流石《さすが》に堪へがたい女の情もあらはれて、淡泊《さつぱり》した未亡人の言葉は反つて深い同情を引いたのである。
 弁護士は銀之助を部屋の片隅へ招いた。相談といふは丑松の身に関したことであつた。弁護士の言ふには、丑松も今となつては斯の飯山に居にくい事情も有らうし、未亡人はまた未亡人で是から帰るには男の手を借りたくも有らうし、するからして、あの蓮太郎の遺骨を護つて、一緒に東京へ行つて貰ひたいが奈何だらう――選挙を眼前《めのまへ》にひかへさへしなければ、無論自身で随いて行くべきでは有るが、それは未亡人が強ひて辞退する。せめて斯の際選挙の方に尽力して夫の霊魂《たましひ》を慰めて呉れといふ。聞いて見れば未亡人の志も、尤《もつとも》。いつそ是《これ》は丑松を煩したい――一切の費用は自分の方で持つ――是非。とのことであつた。
『といふ訳で、瀬川さんにも御話したのですが、』と弁護士は銀之助の顔を眺め乍ら言つた。『学校の方の都合は、君、奈何《どん》なものでせう。』
『学校の方ですか。』と銀之助は受けて、『実は――瀬川君を休職にすると言つて、その下相談が有つたといふ位ですから、無論差支は有ますまいよ。校長の話では、郡視学も其積りで居るさうです。まあ、学校の方のことは僕が引受けて、奈何《どんな》にでも都合の好いやうに致しませう。一日も早く飯山を発ちました方が瀬川君の為には得策だらうと思ふんです。』
 斯《か》ういふ相談をして居るところへ、棺《ひつぎ》が持運ばれた。復《ま》た読経の声が起つた。人々は最後の別離《わかれ》を告げる為に其棺の周囲《まはり》へ集つた。軈て焼場の方へ送られることに成つた頃は、もう四辺《そこいら》も薄暗かつたのである。いよ/\舁《かつ》がれて、『いたや』(北国にある木の名)造りの橇へ載せられる光景《ありさま》を見た時は、未亡人はもう其処へ倒れるばかりに泣いた。

       (五)

 火を入れるところまで見届けて、焼場から帰つた後、丑松は弁護士や銀之助と火鉢を取囲《とりま》いて、扇屋の奥座敷で話した。無情《つれな》い運命も、今は丑松の方へ向いて、微《すこ》し笑つて見せるやうに成つた。あの飯山病院から追はれ、鷹匠《たかしやう》町の宿からも追はれた大日向が――実は、放逐の恥辱《はづかしめ》が非常な奮発心を起させた動機と成つて――亜米利加《アメリカ》の『テキサス』で農業に従事しようといふ新しい計画は、意外にも市村弁護士の口を通して、丑松の耳に希望《のぞみ》を囁《さゝや》いた。教育のある、確実《たしか》な青年を一人世話して呉れ、とは予《かね》て弁護士が大日向から依頼されて居たことで、丁度丑松とは素性も同じ、定めし是話をしたら先方《さき》も悦《よろこ》ばう。望みとあらば周旋してやるが奈何《どう》か。『テキサス』あたりへ出掛ける気は無いか。心懸け次第で随分勉強することも出来よう。是話には銀之助も熱心に賛成した。『見給へ――捨てる神あれば、助ける神ありさ。』と銀之助は其を言ふのであつた。
『明後日の朝、大日向が我輩の宿へ来る約束に成つて居る。むゝ、丁度好い。兎《と》に角《かく》逢《あ》つて見ることにしたまへ。』
 斯ういふ弁護士の言葉は、枯れ萎れた丑松の心を励《はげま》して、様子によつては頼んで見よう、働いて見ようといふ気を起させたのである。
 そればかりでは無い。銀之助から聞いたお志保の物語――まあ、あの可憐な決心と涙とは奈何《どんな》に深い震動を丑松の胸に伝へたらう。敬之進の病気、継母の家出、そんなこんなが一緒に成つて、一層《ひとしほ》お志保の心情を可傷《いたは》しく思はせる。あゝ、絶望し、断念し、素性まで告白して別れた丑松の為に、ひそかに熱い涙をそゝぐ人が有らうとは。可羞《はづか》しい、とはいへ心の底から絞出《しぼりだ》した真実《まこと》の懴悔を聞いて、一生を卑賤《いや》しい穢多の子に寄せる人が有らうとは。
『どうして、君、彼《あ》の女はなか/\しつかりものだぜ。』
 と銀之助は添加《つけた》して言つた。
 其翌日、銀之助は友達の為に、学校へも行き、蓮華寺へも行き、お志保の許《ところ》へも行つた。蓮華寺にある丑松の荷物を取纏めて、直に要《い》るものは要るもの、寺へ預けるものは預けるもので見別《みわけ》をつけたのも、すべて銀之助の骨折であつた。銀之助はまた、お志保のことを未亡人にも話し、弁護士にも話した。女は女に同情《おもひやり》の深いもの。殊にお志保の不幸な境遇は未亡人の心を動したのであつた。行く/\は東京へ引取つて一緒に暮したい。丑松の身が極《きま》つた暁には自分の妹にして結婚《めあは》せるやうにしたい。斯《か》う言出した。兎《と》に角《かく》、後の
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