ことが出来た。成程《なるほど》、左様言はれて見ると、それとない物の端《はし》にも可傷《いたま》しい事実は顕れて居る。左様《さう》言はれて見ると、始めて丑松が斯の寺へ引越して来た時のやうな家庭の温味《あたゝかさ》は何時の間にか無くなつて了つた。
 二階へ通ふ廊下のところで、丑松はお志保に逢《あ》つた。蒼《あを》ざめて死んだやうな女の顔付と、悲哀《かなしみ》の溢《あふ》れた黒眸《くろひとみ》とは――たとひ黄昏時《たそがれどき》の仄《ほの》かな光のなかにも――直に丑松の眼に映る。お志保も亦《ま》た不思議さうに丑松の顔を眺めて、丁度|喪心《さうしん》した人のやうな男の様子を注意して見るらしい。二人は眼と眼を見交したばかりで、黙つて会釈《ゑしやく》して別れたのである。
 自分の部屋へ入つて見ると、最早そこいらは薄暗かつた。しかし丑松は洋燈《ランプ》を点けようとも為なかつた。長いこと茫然として、独りで暗い部屋の内に座《すわ》つて居た。

       (六)

『瀬川さん、御勉強ですか。』
 と声を掛けて、奥様が入つて来たのは、それから二時間ばかり経《た》つてのこと。丑松の机の上には、日々《にち/
前へ 次へ
全486ページ中354ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング