なかつた。
 一夜は斯ういふ風に、褥《しとね》の上で慄《ふる》へたり、煩悶《はんもん》したりして、暗いところを彷徨《さまよ》つたのである。翌日《あくるひ》になつて、いよ/\丑松は深く意《こゝろ》を配るやうに成つた。過去《すぎさ》つた事は最早《もう》仕方が無いとして、是《これ》から将来《さき》を用心しよう。蓮太郎の名――人物――著述――一切、彼《あ》の先輩に関したことは決して他《ひと》の前で口に出すまい。斯う用心するやうに成つた。
 さあ、父の与へた戒《いましめ》は身に染々《しみ/″\》と徹《こた》へて来る。『隠せ』――実にそれは生死《いきしに》の問題だ。あの仏弟子が墨染の衣に守り窶《やつ》れる多くの戒も、是《こ》の一戒に比べては、寧《いつ》そ何でもない。祖師を捨てた仏弟子は、堕落と言はれて済む。親を捨てた穢多の子は、堕落でなくて、零落である。『決してそれとは告白《うちあ》けるな』とは堅く父も言ひ聞かせた。これから世に出て身を立てようとするものが、誰が好んで告白《うちあ》けるやうな真似を為よう。
 丑松も漸《やうや》く二十四だ。思へば好い年齢《とし》だ。
 噫《あゝ》。いつまでも斯うして生きたい。と願へば願ふほど、余計に穢多としての切ない自覚が湧き上るのである。現世の歓楽は美しく丑松の眼に映じて来た。たとへ奈何《いか》なる場合があらうと、大切な戒ばかりは破るまいと考へた。


   第四章

       (一)

 郊外は収穫《とりいれ》の為に忙《せは》しい時節であつた。農夫の群はいづれも小屋を出て、午後の労働に従事して居た。田《た》の面《も》の稲は最早《もう》悉皆《すつかり》刈り乾して、すでに麦さへ蒔付《まきつ》けたところもあつた。一年《ひとゝせ》の骨折の報酬《むくい》を収めるのは今である。雪の来ない内に早く。斯うして千曲川の下流に添ふ一面の平野は、宛然《あだかも》、戦場の光景《ありさま》であつた。
 其日、丑松は学校から帰ると直に蓮華寺を出て、平素《ふだん》の勇気を回復《とりかへ》す積りで、何処へ行くといふ目的《めあて》も無しに歩いた。新町の町はづれから、枯々な桑畠の間を通つて、思はず斯《こ》の郊外の一角へ出たのである。積上げた『藁《わら》によ』の片蔭に倚凭《よりかゝ》つて、霜枯れた雑草の上に足を投出し乍ら、肺の底までも深く野の空気を吸入れた時は、僅に蘇生《いきかへ》つたやうな心地《こゝろもち》になつた。見れば男女の農夫。そこに親子、こゝに夫婦、黄に揚る塵埃《ほこり》を満身に浴びながら、我劣らじと奮闘をつゞけて居た。籾《もみ》を打つ槌《つち》の音は地に響いて、稲扱《いねこ》く音に交つて勇しく聞える。立ちのぼる白い煙もところ/″\。雀の群は時々空に舞揚つて、騒しく鳴いて、軈《やが》てまたぱツと田の面に散乱れるのであつた。
 秋の日は烈しく照りつけて、人々には言ふに言はれぬ労苦を与へた。男は皆な頬冠《ほつかぶ》り、女は皆な編笠《あみがさ》であつた。それはめづらしく乾燥《はしや》いだ、風の無い日で、汗は人々の身体を流れたのである。野に満ちた光を通して、丑松は斯の労働の光景《ありさま》を眺めて居ると、不図《ふと》、倚凭《よりかゝ》つた『藁によ』の側《わき》を十五ばかりの一人の少年が通る。日に焼けた額と、柔嫩《やはらか》な目付とで、直に敬之進の忰《せがれ》と知れた。省吾《しやうご》といふのが其少年の名で、丁度丑松が受持の高等四年の生徒なのである。丑松は其|容貌《かほつき》を見る度に、彼の老朽な教育者を思出さずには居られなかつた。
『風間さん、何処《どちら》へ?』
 斯う声を掛けて見る。
『あの、』と省吾は言淀《いひよど》んで、『母さんが沖(野外)に居やすから。』
『母さん?』
『あれ彼処に――先生、あれが吾家《うち》の母さんでごはす。』
 と省吾は指差して見せて、すこし顔を紅《あか》くした。同僚の細君の噂《うはさ》、それを丑松も聞かないでは無かつたが、然し眼前《めのまへ》に働いて居る女が其人とはすこしも知らなかつた。古びた上被《うはつぱり》、茶色の帯、盲目縞《めくらじま》の手甲《てつかふ》、編笠に日を避《よ》けて、身体を前後に動かし乍ら、※[#「足へん+昔」、第4水準2−89−36]々《せつせ》と稲の穂を扱落《こきおと》して居る。信州北部の女はいづれも強健《つよ》い気象のものばかり。克《よ》く働くことに掛けては男子にも勝《まさ》る程であるが、教員の細君で野面《のら》にまで出て、烈しい気候を相手に精出すものも鮮少《すくな》い。是《これ》も境遇からであらう、と憐んで見て居るうちに、省吾はまた指差して、彼の槌を振上げて籾《もみ》を打つ男、彼《あれ》は手伝ひに来た旧《むかし》からの出入のもので、音作といふ百姓であると話した。母と彼男《あのを
前へ 次へ
全122ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング