さ。しかし、君、考へて見給へ。万更《まんざら》火の気の無いところに煙の揚る筈《はず》も無からうぢやないか。いづれ是には何か疑はれるやうな理由が有つたんでせう――土屋君、まあ、君は奈何《どう》思ひます。』
『奈何しても私には左様思はれません。』
『左様言へば、其迄だが、何かそれでも思ひ当る事が有さうなものだねえ。』と言つて校長は一段声を低くして、『一体瀬川君は近頃非常に考へ込んで居られるやうだが、何が原因《もと》で彼様《あゝ》憂欝に成つたんでせう。以前は克《よ》く吾輩の家《うち》へもやつて来て呉れたツけが、此節はもう薩張《さつぱり》寄付かない。まあ吾儕《われ/\》と一緒に成つて、談《はな》したり笑つたりするやうだと、御互ひに事情も能《よ》く解るんだけれど、彼様《あゝ》して独りで考へてばかり居られるもんだから――ホラ、訳を知らないものから見ると、何かそこには後暗い事でも有るやうに、つい疑はなくても可い事まで疑ふやうに成るんだらうと思ふのサ。』
『いえ。』と銀之助は校長の言葉を遮《さへぎ》つて、『実は――其には他に深い原因が有るんです。』
『他に?』
『瀬川君は彼様いふ性質《たち》ですから、なか/\口へ出しては言ひませんがね。』
『ホウ、言はない事が奈何して君に知れる?』
『だつて、言葉で知れなくたつて、行為《おこなひ》の方で知れます。私は長く交際《つきあ》つて見て、瀬川君が種々《いろ/\》に変つて来た径路《みちすぢ》を多少知つて居ますから、奈何《どう》して彼様《あゝ》考へ込んで居るか、奈何して彼様憂欝に成つて居るか、それはもう彼の君の為《す》ることを見ると、自然と私の胸には感じることが有るんです。』
斯《か》ういふ銀之助の言葉は深く対手の注意を惹いた。校長と郡視学の二人は巻煙草を燻《ふか》し乍ら、奈何《どう》銀之助が言出すかと、黙つて其話を待つて居たのである。
銀之助に言はせると、丑松が憂欝に沈んで居るのは世間で噂《うはさ》するやうなことゝ全く関係の無い――実は、青年の時代には誰しも有勝ちな、其胸の苦痛《くるしみ》に烈しく悩まされて居るからで。意中の人が敬之進の娘といふことは、正に見当が付いて居る。しかし、丑松は彼様いふ気象の男であるから、其を友達に話さないのみか、相手の女にすらも話さないらしい。それそこが性分で、熟《じつ》と黙つて堪《こら》へて居て、唯敬之進とか省吾とか女の親兄弟に当る人々の為に種々《さま/″\》なことを為《し》て遣《や》つて居る――まあ、言はないものは、せめて尽して、それで心を慰めるのであらう。思へば人の知らない悲哀《かなしみ》を胸に湛へて居るのに相違ない。尤《もつと》も、自分は偶然なことからして、斯ういふ丑松の秘密を感得《かんづ》いた。しかも其はつい近頃のことで有ると言出した。『といふ訳で、』と銀之助は額へ手を当てゝ、『そこへ気が付いてから、瀬川君の為ることは悉皆《すつかり》読めるやうに成ました。どうも可笑《をか》しい/\と思つて見て居ましたツけ――そりやあもう、辻褄《つじつま》の合はないやうなことが沢山《たくさん》有つたものですから。』
『成程《なるほど》ねえ。あるひは左様いふことが有るかも知れない。』
と言つて、校長は郡視学と顔を見合せた。
(四)
軈《やが》て銀之助は応接室を出て、復《ま》たもとの職員室へ来て見ると、丑松と文平の二人が他の教員に取囲《とりま》かれ乍ら頻《しきり》に大火鉢の側で言争つて居る。黙つて聞いて居る人々も、見れば、同じやうに身を入れて、あるものは立つて腕組したり、あるものは机に倚凭《よりかゝ》つて頬杖《ほゝづゑ》を突いたり、あるものは又たぐる/\室内を歩き廻つたりして、いづれも熱心に聞耳を立てゝ居る様子。のみならず、丑松の様子を窺《うかゞ》ひ澄まして、穿鑿《さぐり》を入れるやうな眼付したものもあれば、半信半疑らしい顔付の手合もある。銀之助は談話《はなし》の調子を聞いて、二人が一方ならず激昂して居ることを知つた。
『何を君等は議論してるんだ。』
と銀之助は笑ひ乍ら尋ねた。其時、人々の背後《うしろ》に腰掛け、手帳を繰り繙《ひろ》げ、丑松や文平の肖顔《にがほ》を写生し始めたのは準教員であつた。
『今ね、』と準教員は銀之助の方を振向いて見ながら、『猪子先生のことで、大分やかましく成つて来たところさ。』と言つて、一寸鉛筆の尖端《さき》を舐《な》めて、復《ま》た微笑《ほゝゑ》み乍ら写生に取懸つた。
『なにも其様《そんな》にやかましいことぢや無いよ。』斯う文平は聞咎《きゝとが》めたのである。『奈何《どう》して瀬川君は彼《あ》の先生の書いたものを研究する気に成つたのか、其を僕は聞いて見たばかりだ。』
『しかし、勝野君の言ふことは僕に能《よ》く解らない。』丑松の眼は燃え輝
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