したり、壁に耳を寄せて聞いたりした。終《しまひ》には、自分で自分を疑つて、あるひは聞いたと思つたのが夢ででもあつたか、と其音の実《ほんと》か虚《うそ》かすらも判断が着かなくなる。暫時《しばらく》丑松は腕組をして、油の尽きて来た洋燈《ランプ》の火を熟視《みまも》り乍ら、茫然とそこに立つて居た。夜は更ける、心《しん》は疲れる、軈て押入から寝道具を取出した時は、自分で自分の為ることを知らなかつた位。急に烈しく睡気《ねむけ》が襲《さ》して来たので、丑松は半分眠り乍ら寝衣《ねまき》を着更へて、直に復《ま》た感覚《おぼえ》の無いところへ落ちて行つた。


   第拾八章

       (一)

 毎年《まいとし》降る大雪が到頭《たうとう》やつて来た。町々の人家も往来もすべて白く埋没《うづも》れて了つた。昨夜一晩のうちに四尺|余《あまり》も降積るといふ勢で、急に飯山は北国の冬らしい光景《ありさま》と変つたのである。
 斯うなると、最早《もう》雪の捨てどころが無いので、往来の真中へ高く積上げて、雪の山を作る。両側は見事に削り落したり、叩き付けたりして、すこし離れて眺めると、丁度長い白壁のやう。上へ/\と積上げては踏み付け、踏み付けては又た積上げるやうに為るので、軒丈《のきだけ》ばかりの高さに成つて、対《むか》ひあふ家と家とは屋根と廂《ひさし》としか見えなくなる。雪の中から掘出された町――譬《たと》へば飯山の光景《ありさま》は其であつた。
 高柳利三郎と町会議員の一人が本町の往来で出逢《であ》つた時は、盛んに斯雪を片付ける最中で、雪掻《ゆきかき》を手にした男女《をとこをんな》が其処此処《そここゝ》に群《むらが》り集つて居た。『どうも大降りがいたしました。』といふ極りの挨拶を交換《とりかは》した後、軈《やが》て別れて行かうとする高柳を呼留めて、町会議員は斯う言出した。
『時に、御聞きでしたか、彼《あ》の瀬川といふ教員のことを。』
『いゝえ。』と高柳は力を入れて言つた。『私は何《なんに》も聞きません。』
『彼の教員は君、調里《てうり》(穢多の異名)だつて言ふぢや有ませんか。』
『調里?』と高柳は驚いたやうに。
『呆《あき》れたねえ、是《これ》には。』と町会議員も顔を皺《しか》めて、『尤《もつと》も、種々《いろ/\》な人の口から伝《つたは》り伝つた話で、誰が言出したんだか能《よ》く解らない。しかし保証するとまで言ふ人が有るから確実《たしか》だ。』
『誰ですか、其保証人といふのは――』
『まあ、其は言はずに置かう。名前を出して呉れては困ると先方《さき》の人も言ふんだから。』
 斯う言つて、町会議員は今更のやうに他《ひと》の秘密を泄《もら》したといふ顔付。『君だから、話す――秘密にして置いて呉れなければ困る。』と呉々も念を押した。高柳はまた口唇を引歪めて、意味ありげな冷笑《あざわらひ》を浮べるのであつた。
 急いで別れて行く高柳を見送つて、反対《あべこべ》な方角へ一町ばかりも歩いて行つた頃、斯《こ》の噂好《うはさず》きな町会議員は一人の青年に遭遇《であ》つた。秘密に、と思へば思ふ程、猶々《なほ/\》其を私語《さゝや》かずには居られなかつたのである。
『彼の瀬川といふ教員は、君、是《これ》だつて言ひますぜ。』
 と指を四本出して見せる。尤も其意味が対手には通じなかつた。
『是だつて言つたら、君も解りさうなものぢや無いか。』と町会議員は手を振り乍ら笑つた。
『どうも解りませんね。』と青年は訝《いぶか》しさうな顔付。
『了解《さとり》の悪い人だ――それ、調里のことを四足《しそく》と言ふぢやないか。はゝゝゝゝ。しかし是は秘密だ。誰にも君、斯様なことは話さずに置いて呉れ給へ。』
 念を押して置いて、町会議員は別れて行つた。
 丁度、そこへ通りかゝつたのは、学校へ出勤しようとする準教員であつた。それと見た青年は駈寄つて、大雪の挨拶。何時の間にか二人は丑松の噂を始めたのである。
『是《これ》はまあ極《ご》く/\秘密なんだが――君だから話すが――』と青年は声を低くして、『君の学校に居る瀬川先生は調里ださうだねえ。』
『其さ――僕もある処で其話を聞いたがね、未だ半信半疑で居る。』と準教員は対手の顔を眺め乍ら言つた。『して見ると、いよ/\事実かなあ。』
『僕は今、ある人に逢つた。其人が指を四本出して見せて、彼の教員は是だと言ふぢやないか。はてな、とは思つたが、其意味が能く解らない。聞いて見ると、四足といふ意味なんださうだ。』
『四足? 穢多のことを四足と言ふかねえ。』
『言はあね。四足と言つて解らなければ、「よつあし」と言つたら解るだらう。』
『むゝ――「よつあし」か。』
『しかし、驚いたねえ。狡猾《かうくわつ》な人間もあればあるものだ。能《よ》く今日《いま》まで隠蔽《か
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