る。娘はもう悲いやら恐しいやらで、夜も碌々眠られないと言ふ。呆《あき》れたねえ、我輩も是《この》話を聞いた時は。だから、君、娘が家《うち》へ帰りたいと言ふのは、実際無理もない。我輩だつて、其様なところへ娘を遣《や》つて置きたくは無い。そりやあもう一日も早く引取りたい。そこがそれ情ないことには、今の家内がもうすこし解つて居て呉れると、奈何《どう》にでもして親子でやつて行かれないことも有るまいと思ふけれど、現に省吾一人にすら持余して居るところへ、またお志保の奴が飛込んで来て見給へ――到底《とても》今の家内と一緒に居られるもんぢや無い。第一、八人の親子が奈何して食へよう。其や是やを考へると、我輩の口から娘に帰れとは言はれないぢやないか。噫《あゝ》、辛抱、辛抱――出来ることを辛抱するのは辛抱でも何でも無い、出来ないところを辛抱するのが真実《ほんたう》の辛抱だ。行け、行け、心を毅然《しつかり》持て。奥様といふものも附いて居る。その人の傍に居て離れないやうにしたら、よもや無理なことを言懸けられもしまい。たとへ先方《さき》が親らしい行為をしない迄《まで》も、これまで育てゝ貰つた恩義も有る。一旦蓮華寺の娘と成つた以上は、奈何《どん》な辛いことがあらうと決して家《うち》へ帰るな。そこを勤め抜くのが孝行といふものだ。とまあ、賺《すか》したり励《はげま》したりして、無理やりに娘を追立てゝやつたよ。思へば可愛さうなものさ。あゝ、あゝ、斯ういふ時に先の家内が生きて居たならば――』
敬之進の顔には真実と苦痛とが表れて、眼は涙の為に濡《ぬ》れ輝いた。成程、左様言はれて見ると、丑松も思ひ当ることがないでもない。あの蓮華寺の内部《なか》の光景《ありさま》を考へると、何か斯う暗い雲が隅のところに蟠《わだかま》つて、絶えず其が家庭の累《わづらひ》を引起す原因《もと》で、住職と奥様とは無言の間に闘つて居るかのやう――譬《たと》へば一方で日があたつて、楽しい笑声の聞える時でも、必ず一方には暴風雨《あらし》が近《ちかづ》いて居る。斯ういふ感想《かんじ》は毎日のやうに有つた。唯其は何処の家庭《うち》にも克《よ》くある角突合《つのづきあひ》――まあ、住職と奥様とは互ひに仏弟子のことだから、言はゞ高尚な夫婦喧嘩、と丑松も想像して居たので、よもや其雲のわだかまりがお志保の上にあらうとは思ひ設けなかつたのである。奥様がわざ/\磊落《らいらく》らしく装《よそほ》つて、剽軽《へうきん》なことを言つて、男のやうな声を出して笑ふのも、其為だらう。紅涙《なんだ》が克《よ》くお志保の顔を流れるのも、其為だらう。どうもをかしい/\と思つて居たことは、この敬之進の話で悉皆《すつかり》読めたのである。
長いこと二人は悄然《しよんぼり》として、互ひに無言の儘《まゝ》で相対《さしむかひ》に成つて居た。
第拾七章
(一)
勘定を済まして笹屋を出る時、始めて丑松は月給のうちを幾許《いくら》袂《たもと》に入れて持つて来たといふことに気が着いた。それは銀貨で五十銭ばかりと、外に五円|紙幣《さつ》一枚あつた。父の存命中は毎月|為替《かはせ》で送つて居たが、今は其を為《す》る必要も無いかはり、帰省の当時大分|費《つか》つた為に斯金《このかね》が大切のものに成つて居る、彼是《かれこれ》を考へると左様無暗には費はれない。しかし丑松の心は暗かつた。自分のことよりは敬之進の家族を憐むのが先で、兎《と》に角《かく》省吾の卒業する迄、月謝や何かは助けて遣《や》りたい――斯う考へるのも、畢竟《つまり》はお志保を思ふからであつた。
酔つて居る敬之進を家《うち》まで送り届けることにして、一緒に雪道を歩いて行つた。慄《ふる》へるやうな冷い風に吹かれて、寒威《さむさ》に抵抗《てむかひ》する力が全身に満ち溢《あふ》れると同時に、丑松はまた精神《こゝろ》の内部《なか》の方でもすこし勇気を回復した。並んで一緒に歩く敬之進は、と見ると――釣竿を忘れずに舁《かつ》いで来た程、其様《そんな》に酷《ひど》く酔つて居るとも思はれないが、しかし不規則な、覚束ない足許《あしもと》で、彼方《あつち》へよろ/\、是方《こつち》へよろ/\、どうかすると往来の雪の中へ倒れかゝりさうに成る。『あぶない、あぶない。』と丑松が言へば、敬之進は僅かに身を支へて、『ナニ、雪の中だ? 雪の中、結構――下手な畳の上よりも、結句|是方《このはう》が気楽だからね。』これには丑松も持余して了《しま》つて、若《も》し是雪《このゆき》の中で知らずに寝て居たら奈何《どう》するだらう、斯う思ひやつて身を震はせた。斯の老朽な教育者の末路、彼の不幸なお志保の身の上――まあ、丑松は敬之進親子のことばかり思ひつゞけ乍ら随《つ》いて行つた。
敬之進の住居《すまひ
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