に呻吟《うな》つてるかと思ふと、また虚言《うそ》を言つたやうに愈《なほ》るから不思議さ――そりやあ、もう、毎時《いつも》御極りだ。それはさうと、斯うして一緒に馬鹿を言ふのも僅かに成つて来た。其内に御別れだ。』
『左様かねえ、君はもう行つて了ふかねえ。』
 斯ういふ言葉を取交して、二人は互に感慨に堪へないといふ様子であつた。其時迄、黙つて二人の談話《はなし》を聞いて、巻煙草ばかり燻《ふか》して居た準教員は、唐突《だしぬけ》に斯様《こん》なことを言出した。
『今日僕は妙なことを聞いて来た。学校の職員の中に一人新平民が隠れて居るなんて、其様《そん》なことを町の方で噂《うはさ》するものが有るさうだ。』

       (三)

『誰が其様なことを言出したんだらう。』と銀之助は準教員の方へ向いて言つた。
『誰が言出したか、其は僕も知らないがね。』と準教員はすこし困却《こま》つたやうな調子で、『要するに、人の噂に過ぎないんだらうと思ふんだ。』
『噂にもよりけりさ。其様なことを言はれちやあ、大に吾儕《われ/\》が迷惑するねえ。克《よ》く町の人は種々《いろ/\》なことを言触らす。やれ、女の教員が奈何《どう》したの、男の教員が斯様《かう》したのツて。何故《なぜ》、左様《さう》人の噂が為たいんだらう。そんなら、君、まあ学校の職員を数へて見給へ。穢多らしいやうな顔付のものが吾儕の中にあるかい。実に怪しからんことを言ふぢやないか――ねえ、瀬川君。』
 斯う言つて、銀之助は丑松の方を見た。丑松は無言で、白い毛布に身を包んだまゝ。
『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑ひ出した。『校長先生は随分|几帳面《きちやうめん》な方だが、なんぼなんでも新平民とは思はれないし、と言つて、教員仲間に其様なものは見当りさうも無い。左様さなあ――いやに気取つてるのは勝野君だ――まあ、其様な嫌疑のかゝるのは勝野君位のものだ。』
『まさか。』と準教員も一緒になつて笑つた。
『そんなら、君、誰だと思ふ。』と銀之助は戯れるやうに、『さしづめ、君ぢやないか。』
『馬鹿なことを言ひ給へ。』と準教員はすこし憤然《むつ》とする。
『はゝゝゝゝ、君は直に左様《さう》怒《おこ》るから不可《いかん》。なにも君だと言つた訳では無いよ。真箇《ほんたう》に、君のやうな人には戯語《じようだん》も言へない。』
『しかし。』と準教員は真面目《まじめ》に成つて、『是《これ》がもし事実だと仮定すれば――』
『事実? 到底《たうてい》其様なことは有得べからざる事実だ。』と銀之助は聞入れなかつた。『何故と言つて見給へ。学校の職員は大抵|出処《でどこ》が極《きま》つて居る。君等のやうに講習を済まして来た人か、勝野君のやうに検定試験から入つて来た人か、または吾儕《われ/\》のやうに師範出か――是より外には無い。若《も》し吾儕の中に其様《そん》な人が有るとすれば、師範校時代にもう知れて了ふね。卒業する迄も其が知れずに居るなんてことは、寄宿舎生活が許さないさ。検定試験を受けるやうな人は、いづれ長く学校に関係した連中だから、是も知れずに居る筈が無し、君等の方はまた猶更《なほさら》だらう。それ見給へ。今になつて、突然其様なことを言触らすといふは、すこし可笑《をか》しいぢやないか。』
『だから――』と準教員は言葉に力を入れて、『僕だつても事実だと言つた訳では無いサ。若《もし》事実だと仮定すれば、と言つたんサ。』
『若《もし》かね。はゝゝゝゝ。君の言ふ若は仮定する必要の無い若だ。』
『左様《さう》言へばまあ其迄だが、しかし万一|其様《そん》なことが有るとすれば、奈何《どう》いふ結果に成つて行くものだらう――僕は考へたばかりでも恐しいやうな気がする。』
 銀之助は答へなかつた。二人の客はもうそれぎり斯様《こん》な話を為なかつた。
 軈《やが》て二人が言葉を残して出て行かうとした時は、丑松は喪心した人のやうで、其顔色は白い毛布に映つて、一層蒼ざめて見えたのである。『あゝ、瀬川君は未だ快《よ》くないんだらう。』斯《か》う銀之助は自分で自分に言ひ乍ら、準教員と一緒に楼梯《はしごだん》を下りて行つた。
 暫時《しばらく》丑松は茫然として部屋の内を眺め廻して居たが、急に寝床を片付けて、着物を着更へて見た。不図《ふと》思ひついたやうに、押入の隅のところに隠して置いた書物を取出した。それはいづれも蓮太郎を思出させるもので、彼の先輩が心血と精力とを注ぎ尽したといふ『現代の思潮と下層社会』、小冊子には『平凡なる人』、『労働』、『貧しきものゝ慰め』、それから『懴悔録』なぞ。丑松は一々|内部《なか》を好く改めて見て、蔵書の印がはりに捺《お》して置いた自分の認印《みとめ》を消して了つた。ほかに、床の間に置並べた語学の参考書の中から、五六冊不要なのを抜取つて、塵埃《
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