《だあれ》も居ないやうな処へ行つて大きな声を出して泣いて見たいのツて――まあ、奈何《どう》して其様な気になるだらず。』
 斯う言つて、省吾は小首を傾《かし》げて、一寸口笛吹く真似をした。
 間も無く省吾は出て行つた。丑松は唯|単独《ひとり》になつた。急に本堂の内部《なか》は※[#「門<貝」、第4水準2−91−57]《しん》として、種々《さま/″\》の意味ありげな装飾が一層無言のなかに沈んだやうに見える。深い天井の下に、いつまでも変らずにある真鍮《しんちゆう》の香炉、花立、燈明皿――そんな性命《いのち》の無い道具まで、何となく斯う寂寞《じやくまく》な瞑想《めいさう》に耽つて居るやうで、仏壇に立つ観音《くわんおん》の彫像は慈悲といふよりは寧《むし》ろ沈黙の化身《けしん》のやうに輝いた。斯ういふ静寂《しづか》な、世離れたところに立つて、其人のことを想《おも》ひ浮べて見ると、丁度古蹟を飾る花草のやうな気がする。丑松は、血の湧く思を抱き乍ら、円い柱と柱との間を往つたり来たりした。
『お志保さん、お志保さん。』
 あてども無く口の中で呼んで見たのである。
 いつの間には四壁《そこいら》は暗くなつて来た。青白い黄昏時《たそがれどき》の光は薄明く障子に映つて、本堂の正面の方から射しこんだので、柱と柱との影は長く畳の上へ引いた。倦《う》み、困《くるし》み、疲れた冬の一日《ひとひ》は次第に暮れて行くのである。其時|白衣《びやくえ》を着けた二人の僧が入つて来た。一人は住職、一人は寺内の若僧であつた。灯《あかし》は奥深く点《つ》いて、あそこにも、こゝにも、と見て居るうちに、六挺ばかりの蝋燭《らふそく》が順序よく並んで燃《とぼ》る。仏壇を斜に、内陣の角のところに座を占めて、金泥《きんでい》の柱の側に掌《て》を合はせたは、住職。一段低い外陣に引下つて、反対の側にかしこまつたは、若僧。やがて鉦《かね》の音が荘厳《おごそか》に響き渡る。合唱の声は起つた。
『なむからかんのう、とらやあ、やあ――』
 宵《よひ》の勤行《おつとめ》が始つたのである。
 あゝ、寂しい夕暮もあればあるもの。丑松は北の間の柱に倚凭《よりかゝ》り乍ら、目を瞑《つぶ》り、頭をつけて、深く/\思ひ沈んで居た。『若《も》し自分の素性がお志保の耳に入つたら――』其を考へると、つく/″\穢多の生命《いのち》の味気なさを感ずる。漠然とした死滅の思想は、人懐しさの情に混つて、烈しく胸中を往来し始めた。熾盛《さかん》な青春の時代《ときよ》に逢ひ乍ら、今迄|経験《であ》つたことも無ければ翹望《のぞ》んだことも無い世の苦といふものを覚えるやうに成つたか、と考へると、左様《さう》いふ思想《かんがへ》を起したことすら既にもう切なく可傷《いたま》しく思はれるのであつた。冷《つめた》い空気に交る香の煙のにほひは、斯の夕暮に一層のあはれを添へて、哀《かな》しいとも、堪へがたいとも、名のつけやうが無い。遽然《にはかに》、二人の僧の声が絶えたので、心づいて眺めた時は、丁度|読経《どきやう》を終つて仏の名を称《とな》へるところ。間も無く住職は珠数《ずゝ》を手にして柱の側を離れた。若僧は未《ま》だ同じ場処に留つた。丑松は眺め入つた――高らかに節つけて読む高祖の遺訓の終る迄《まで》も――其文章を押頂いて、軈《やが》て若僧の立上る迄も――終《しまひ》には、蝋燭の灯が一つ/\吹消されて、仏前の燈明ばかり仄《ほの》かに残り照らす迄も。

       (三)

 夕飯の後、蓮華寺では説教の準備《したく》を為るので多忙《いそが》しかつた。昔からの習慣《ならはし》として、定紋つけた大提灯《おほぢやうちん》がいくつとなく取出された。寺内の若僧、庄馬鹿、子坊主まで聚《よ》つて会《たか》つて、火を点《とも》して、其を本堂へと持運ぶ。三人はその為に長い廊下を往つたり来たりした。
 説教聞きにとこゝろざす人々は次第に本堂へ集つて来た。是寺に附く檀家《だんか》のものは言ふも更《さら》なり、其と聞伝へたかぎりは誘ひ合せて詰掛ける。既にもう一生の行程《つとめ》を終つた爺さん婆さんの群ばかりで無く、随分|種々《さま/″\》の繁忙《せは》しい職業に従ふ人々まで、其を聴かうとして熱心に集ふのを見ても、いかに斯の飯山の町が昔風の宗教と信仰との土地であるかを想像させる。聖経《おきやう》の中にある有名な文句、比喩《たとへ》なぞが、普通の人の会話に交るのは珍しくも無い。娘の連はいづれも美しい珠数の袋を懐にして、蓮華寺へと先を争ふのであつた。
 それは丑松の身に取つて、最も楽しい、又最も哀しい寺住《てらずみ》の一夜であつた。どんなに丑松は胸を踊らせて、お志保と一緒に説教聞く歓楽《たのしみ》を想像したらう。あゝ、斯ういふ晩にあたつて、自分が穢多であるといふことを考へたほ
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