文平が話しこんで居るのだ。丑松は表側の廊下を通ることにした。
(二)
古い僧坊は廊下の右側に並んで、障子越しに話声なぞの泄《も》れて聞えるは、下宿する人が有ると見える。是寺《このてら》の広く複雑《こみい》つた構造《たてかた》といつたら、何処《どこ》に奈何《どう》いふ人が泊つて居るか、其すら克《よ》くは解らない程。平素《ふだん》は何の役にも立ちさうも無い、陰気な明間がいくつとなく有る。斯うして省吾と連立つて、細長い廊下を通る間にも、朽ち衰へた精舎《しようじや》の気は何となく丑松の胸に迫るのであつた。壁は暗く、柱は煤け、大きな板戸を彩色《いろど》つた古画の絵具も剥落ちて居た。
斯の廊下が裏側の廊下に接《つゞ》いて、丁度本堂へ曲らうとする角のところで、急に背後《うしろ》の方から人の来る気勢《けはひ》がした。思はず丑松は振返つた。省吾も。見ればお志保で、何か用事ありげに駈寄つて、未だ物を言はない先からもう顔を真紅《まつか》にしたのである。
『あの――』とお志保は艶のある清《すゞ》しい眸《ひとみ》を輝かした。『先程は、弟が結構なものを頂きましたさうで。』
斯う礼を述べ乍ら、其|口唇《くちびる》で嬉しさうに微笑《ほゝゑ》んで見せた。
其時奥様の呼ぶ声が聞えた。逸早《いちはや》くお志保は聞きつけて、一寸耳を澄まして居ると、『あれ、姉さん、呼んでやすよ。』と省吾も姉の顔を見上げた。復た呼ぶ声が聞える。驚いたやうに引返して行くお志保の後姿を見送つて、軈て省吾を導いて、丑松は本堂の扉《ひらき》を開けて入つた。
あゝ、精舎の静寂《しづか》さ――丁度其は古蹟の内を歩むと同じやうな心地《こゝろもち》がする。円《まる》い塗柱に懸かる時計の針の刻々をきざむより外には、斯《こ》の高く暗い天井の下に、一つとして音のするものは無かつた。身に沁み入るやうな沈黙は、そこにも、こゝにも、隠れ潜んで居るかのやう。目に入るものは、何もかも――錆《さび》を帯びた金色《こんじき》の仏壇、生気の無い蓮《はす》の造花《つくりばな》、人の空想を誘ふやうな天界《てんがい》の女人《によにん》の壁に画《か》かれた形像《かたち》、すべてそれらのものは過去《すぎさ》つた時代の光華《ひかり》と衰頽《おとろへ》とを語るのであつた。丑松は省吾と一緒に内陣迄も深く上つて、仏壇のかげにある昔の聖僧達の画像の前を歩いた。
『省吾さん。』と丑松は少年の横顔を熟視《まも》り乍ら、『君はねえ、家眷《うち》の人の中で誰が一番好きなんですか――父さんですか、母さんですか。』
省吾は答へなかつた。
『当てゝ見ませうか。』と丑松は笑つて、『父さんでせう?』
『いゝえ。』
『ホウ、父さんぢや無いですか。』
『だつて、父さんはお酒ばかり飲んでゝ――』
『そんなら君、誰が好きなんですか。』
『まあ、私《わし》は――姉さんでごはす。』
『姉さん? 左様かねえ、君は姉さんが一番好いかねえ。』
『私は、姉さんには、何でも話しやすよ、へえ父さんや母さんには話さないやうなことでも。』
斯《か》う言つて、省吾は何の意味もなく笑つた。
北の小座敷には古い涅槃《ねはん》の図が掛けてあつた。普通の寺によくある斯の宗教画は大抵|模倣《うつし》の模倣で、戯曲《しばゐ》がゝりの配置《くみあはせ》とか、無意味な彩色《いろどり》とか、又は熱帯の自然と何の関係も無いやうな背景とか、そんなことより外《ほか》に是《これ》ぞと言つて特色《とりえ》の有るものは鮮少《すくな》い。斯《こ》の寺のも矢張同じ型ではあつたが、多少創意のある画家《ゑかき》の筆に成つたものと見えて、ありふれた図に比べると余程|活々《いき/\》して居た。まあ、宗教《をしへ》の方の情熱が籠るとは見えない迄も、何となく人の心を※[#「女+無」、第4水準2−5−80]《ひきつ》ける樸実《まじめ》なところがあつた。流石《さすが》、省吾は未だ子供のことで、其|禽獣《とりけもの》の悲嘆《なげき》の光景《さま》を見ても、丁度お伽話《とぎばなし》を絵で眺めるやうに、別に不思議がるでも無く、驚くでも無い。無邪気な少年はたゞ釈迦《しやか》の死を見て笑つた。
『あゝ。』と丑松は深い溜息を吐《つ》いて、『省吾さんなぞは未だ死ぬといふことを考へたことが有ますまいねえ。』
『私《わし》がでごはすか。』と省吾は丑松の顔を見上げる。
『さうさ――君がサ。』
『はゝゝゝゝ。ごはせんなあ、其様《そん》なことは。』
『左様だらうねえ。君等の時代に其様なことを考へるやうなものは有ますまいねえ。』
『ふゝ。』と省吾は思出したやうに笑つて、『お志保姉さんも克《よ》く其様なことを言ひやすよ。』
『姉さんも?』と丑松は熱心な眸を注いだ。
『はあ、あの姉さんは妙なことを言ふ人で、へえもう死んで了ひたいの、誰
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