も熱心に。
『他の学校へ移すとか、後釜《あとがま》へは――それ、君の気に入つた人を入れるとかサ。』
『そこです――同じ移すにしても、何か口実が無いと――余程そこは巧《うま》くやらないと――あれで瀬川君はなか/\生徒間に人望が有ますから。』
『さうさ、過失の無いものに向つて、出て行けとも言はれん。はゝゝゝゝ、余りまた細工をしたやうに思はれるのも厭だ。』と言つて郡視学は気を変へて、『まあ私の口から甥を褒めるでも有ませんが、貴方の為には必定《きつと》御役に立つだらうと思ひますよ。瀬川君に比べると、勝るとも劣ることは有るまいといふ積りだ。一体瀬川君は何処が好いんでせう。どうして彼様《あん》な教師に生徒が大騒ぎをするんだか――私なんかには薩張《さつぱり》解らん。他《ひと》の名誉に思ふことを冷笑するなんて、奈何《どう》いふことがそんならば瀬川君なぞには難有《ありがた》いんです。』
『先づ猪子蓮太郎あたりの思想でせうよ。』
『むゝ――あの穢多か。』と郡視学は顔を渋《しか》める。
『あゝ。』と校長も深く歎息した。『猪子のやうな男の書いたものが若いものに読まれるかと思へば恐しい。不健全、不健全――今日の新しい出版物は皆な青年の身をあやまる原因《もと》なんです。その為に畸形《かたは》の人間が出来て見たり、狂見《きちがひみ》たやうな男が飛出したりする。あゝ、あゝ、今の青年の思想ばかりは奈何《どう》しても吾儕《われ/\》に解りません。』
(三)
不図応接室の戸を叩《たゝ》く音がした。急に二人は口を噤《つぐ》んだ。復《ま》た叩く。『お入り』と声をかけて、校長は倚子《いす》を離れた。郡視学も振返つて、戸を開けに行く校長の後姿を眺め乍ら、誰、町会議員からの使ででもあるか、斯う考へて、入つて来る人の様子を見ると――思ひの外な一人の教師、つゞいてあらはれたのが丑松であつた。校長は思はず郡視学と顔を見合せたのである。
『校長先生、何か御用談中ぢや有ませんか。』
と丑松は尋ねた。校長は一寸|微笑《ほゝゑ》んで、
『いえ、なに、別に用談でも有ません――今二人で御噂をして居たところです。』
『実はこの風間さんですが、是非郡視学さんに御目に懸つて、直接に御願ひしたいことがあるさうですから。』
斯《か》う言つて、丑松は一緒に来た同僚を薦《すゝ》めるやうにした。
風間|敬之進《けいのしん》は、時世の為に置去にされた、老朽な小学教員の一人。丑松や銀之助などの若手に比べると、阿爺《おやぢ》にしてもよい程の年頃である。黒木綿の紋付羽織、垢染《あかじ》みた着物、粗末な小倉の袴を着けて、兢々《おづ/\》郡視学の前に進んだ。下り坂の人は気の弱いもので、すこし郡視学に冷酷な態度《やうす》が顕《あらは》れると、もう妙に固くなつて思ふことを言ひかねる。
『何ですか、私に用事があると仰《おつしや》るのは。』斯う催促して、郡視学は威丈高《ゐたけだか》になつた。あまり敬之進が躊躇《ぐづ/\》して居るので、終《しまひ》には郡視学も気を苛《いら》つて、時計を出して見たり、靴を鳴らして見たりして、
『奈何《どう》いふ御話ですか。仰つて見て下さらなければ解りませんなあ。』
もどかしく思ひ乍ら椅子を離れて立上るのであつた。敬之進は猶々《なほ/\》言ひかねるといふ様子で、
『実は――すこし御願ひしたい件《こと》が有まして。』
『ふむ。』
復《ま》た室の内は寂《しん》として暫時《しばらく》声がなくなつた。首を垂れ乍ら少許《すこし》慄《ふる》へて居る敬之進を見ると、丑松は哀憐《あはれみ》の心を起さずに居られなかつた。郡視学は最早《もう》堪《こら》へかねるといふ風で、
『私は是で多忙《いそが》しい身体です。何か仰ることがあるなら、ずん/\仰つて下さい。』
丑松は見るに見かねた。
『風間さん、其様《そんな》に遠慮しない方が可《いゝ》ぢや有ませんか。貴方は退職後のことを御相談して頂きたいといふんでしたらう。』斯う言つて、軈《やが》て郡視学の方へ向いて、『私から伺ひます。まあ、風間さんのやうに退職となつた場合には、恩給を受けさして頂く訳に参りませんものでせうか。』
『無論です、そんなことは。』と郡視学は冷かに言放つた。『小学校令の施行規則を出して御覧なさい。』
『そりやあ規則は規則ですけれど。』
『規則に無いことが出来るものですか。身体が衰弱して、職務を執るに堪へないから退職する――其を是方《こちら》で止める権利は有ません。然し、恩給を受けられるといふ人は、満十五ヶ年以上在職したものに限つた話です。風間さんのは十四ヶ年と六ヶ月にしかならない。』
『でも有ませうが、僅か半歳のことで教育者を一人御救ひ下さるとしたら。』
『其様《そん》なことを言つて見た日にやあ際涯《さいげん》が無い。何ぞと言ふ
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