やうに言ひ入れて、振舞の座には神主坊主と同席に座《す》ゑられ、すこしは地酒の飲みやうも覚え、土地の言葉も可笑《をか》しくなく使用《つか》へる頃には、自然と学問を忘れて、無教育な人にも馴染《なじ》むものである。賢いと言はれる教育者は、いづれも町会議員なぞに結托して、位置の堅固を計るのが普通だ。
 帽子を執《と》つて帰つて行く人々の後に随いて、校長はそこ迄見送つて出た。軈《やが》て玄関で挨拶して別れる時、互に斯ういふ言葉を取替《とりかは》した。
『では、郡視学さんも御誘ひ下すつて、学校から直に御出を。』
『恐れ入りましたなあ。』

       (二)

『小使。』
 と呼ぶ校長の声は長い廊下に響き渡つた。
 生徒はもう帰つて了つた。教場の窓は皆な閉つて、運動場《うんどうば》に庭球《テニス》する人の影も見えない。急に周囲《そこいら》は森閑《しんかん》として、時々職員室に起る笑声の外には、寂《さみ》しい静かな風琴の調《しらべ》がとぎれ/\に二階から聞えて来る位のものであつた。
『へい、何ぞ御用で御座《ござい》ますか。』と小使は上草履を鳴らして駈寄る。
『あ、ちよと、気の毒だがねえ、もう一度役場へ行つて催促して来て呉れないか。金銭《おかね》を受取つたら直に持つて来て呉れ――皆さんも御待兼だ。』
 斯う命じて置いて、校長は応接室の戸を開けて入つた。見れば郡視学は巻煙草を燻《ふか》し乍ら、独りで新聞を読み耽《ふけ》つて居る。『失礼しました。』と声を掛けて、其側《そのわき》へ自分の椅子を擦寄せた。
『見たまへ、まあ斯《この》信濃毎日を。』と郡視学は馴々敷《なれ/\しく》、『君が金牌を授与されたといふことから、教育者の亀鑑だといふこと迄、委敷《くはしく》書いて有ますよ。表彰文は全部。それに、履歴までも。』
『いや、今度の受賞は大変な評判になつて了ひました。』と校長も喜ばしさうに、『何処へ行つても直に其話が出る。実に意外な人迄知つて居て、祝つて呉れるやうな訳で。』
『結構です。』
『これといふのも貴方《あなた》の御骨折から――』
『まあ其は言はずに置いて貰ひませう。』と郡視学は対手の言葉を遮《さへぎ》つた。『御互様のことですからな。はゝゝゝゝ。しかし吾党の中から受賞者を出したのは名誉さ。君の御喜悦《およろこび》も御察し申す。』
『勝野君も非常に喜んで呉れましてね。』
『甥《をひ》がですか、あゝ左様《さう》でしたらう。私の許《ところ》へも長い手紙をよこしましたよ。其を読んだ時は、彼男《あのをとこ》の喜ぶ顔付が目に見えるやうでした。実際、甥は貴方の為を思つて居るのですからな。』
 郡視学が甥と言つたのは、検定試験を受けて、合格して、此頃新しく赴任して来た正教員。勝野文平といふのが其男の名である。割合に新参の校長は文平を引立てゝ、自分の味方に附けようとしたので。尤《もつと》も席順から言へば、丑松は首座。生徒の人望は反つて校長の上にある程。銀之助とても師範出の若手。いかに校長が文平を贔顧《ひいき》だからと言つて、二人の位置を動かす訳にはいかない。文平は第三席に着けられて出たのであつた。
『それに引換へて瀬川君の冷淡なことは。』と校長は一段声を低くした。
『瀬川君?』と郡視学も眉をひそめる。
『まあ聞いて下さい。万更《まんざら》の他人が受賞したではなし、定めし瀬川君だつても私の為に喜んで居て呉れるだらう、と斯う貴方なぞは御考へでせう。ところが大違ひです。こりやあ、まあ、私が直接《ぢか》に聞いたことでは無いのですけれど――又、私に面と向つて、まさかに其様《そん》なことが言へもしますまいが――といふのは、教育者が金牌なぞを貰つて鬼の首でも取つたやうに思ふのは大間違だと。そりやあ成程《なるほど》人爵の一つでせう。瀬川君なぞに言はせたら価値《ねうち》の無いものでせう。然し金牌は表章《しるし》です。表章が何も難有《ありがた》くは無い。唯其意味に価値《ねうち》がある。はゝゝゝゝ、まあ左様《さう》ぢや有ますまいか。』
『どうしてまた瀬川君は其様《そん》な思想《かんがへ》を持つのだらう。』と郡視学は嘆息した。
『時代から言へば、あるひは吾儕《われ/\》の方が多少|後《おく》れて居るかも知れません。しかし新しいものが必ずしも好いとは限りませんからねえ。』と言つて校長は嘲《あざけ》つたやうに笑つて、『なにしろ、瀬川君や土屋君が彼様《あゝ》して居たんぢや、万事私も遣りにくゝて困る。同志の者ばかり集つて、一致して教育事業をやるんででもなけりやあ、到底面白くはいきませんさ。勝野君が首座ででもあつて呉れると、私も大きに安心なんですけれど。』
『そんなに君が面白くないものなら、何とか其処には方法も有さうなものですがなあ。』と郡視学は意味ありげに相手の顔を眺めた。
『方法とは?』と校長
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