何卒《どうか》して『紳士』の尊称を得たいと思つて居る程。恐らく上流社会の華《はな》やかな交際は、彼が見て居る毎日の夢であらう。孔雀の真似を為《す》る鴉《からす》の六左衛門が東京に別荘を置くのも其為である。赤十字社の特別社員に成つたのも其為である。慈善事業に賛成するのも其為である。書画|骨董《こつとう》で身の辺《まはり》を飾るのも亦た其為である。彼程《あれほど》学問が無くて、彼程蔵書の多いものも鮮少《すくな》からう、とは斯界隈《このかいわい》での一つ話に成つて居る。
斯ういふことを語り乍ら歩いて行くうちに、二人は六左衛門の家の前へ出て来た。丁度午後の日を真面《まとも》にうけて、宏壮《おほき》な白壁は燃える火のやうに見える。建物|幾棟《いくむね》かあつて、長い塀《へい》は其|周囲《まはり》を厳《いかめ》しく取繞《とりかこ》んだ。新平民の子らしいのが、七つ八つを頭《かしら》にして、何か『めんこ』の遊びでもして、其塀の外に群り集つて居た。中には頬の紅《あか》い、眼付の愛らしい子もあつて、普通の家の小供と些少《すこし》も相違の無いのがある。中には又、卑しい、愚鈍《おろか》しい、どう見ても日蔭者の子らしいのがある。是れを眺めても、穢多の部落が幾通りかの階級に別れて居ることは知れた。親らしい男は馬を牽《ひ》いて、其小供の群に声を掛けて通り、姉らしい若い女は細帯を巻付けた儘《まゝ》で、いそ/\と二人の側を影のやうに擦抜《すりぬ》けた。斯うして無智と零落とを知らずに居る穢多町の空気を呼吸するといふことは、可傷《いたま》しいとも、恥かしいとも、腹立たしいとも、名のつけやうの無い思をさせる。『吾儕《われ/\》を誰だと思ふ。』と丑松は心に憐んで、一時《いつとき》も早く是処を通過ぎて了《しま》ひたいと考へた。
『先生――行かうぢや有ませんか。』
と丑松はそこに佇立《たゝず》み眺《なが》めて居る蓮太郎を誘ふやうにした。
『見たまへ、まあ、斯の六左衛門の家《うち》を。』と蓮太郎は振返つて、『何処《どこ》から何処まで主人公の性質を好く表してるぢや無いか。つい二三日前、是の家に婚礼が有つたといふ話だが、君は其様《そん》な噂《うはさ》を聞かなかつたかね。』
『婚礼?』と丑松は聞咎《きゝとが》める。
『その婚礼が一通りの婚礼ぢや無い――多分|彼様《あゝ》いふのが政治的結婚とでも言ふんだらう。はゝゝゝゝ。政事家の為《す》ることは違つたものさね。』
『先生の仰《おつしや》ることは私に能《よ》く解りません。』
『花嫁は君、斯の家の娘さ。御聟《おむこ》さんは又、代議士の候補者だから面白いぢやないか――』
『ホウ、代議士の候補者? まさか彼の一緒に汽車に乗つて来た男ぢや有ますまい。』
『それさ、その紳士さ。』
『へえ――』と丑松は眼を円くして、『左様《さう》ですかねえ――意外なことが有れば有るものですねえ――』
『全く、僕も意外さ。』といふ蓮太郎の顔は輝いて居たのである。
『しかし何処で先生は其様《そん》なことを御聞きでしたか。』
『まあ、君、宿屋へ行つて話さう。』
第九章
(一)
一軒、根津の塚窪《つかくぼ》といふところに、未《ま》だ会葬の礼に泄《も》れた家が有つて、丁度|序《ついで》だからと、丑松は途中で蓮太郎と別れた。蓮太郎は旅舎《やどや》へ。直に後から行く約束して、丑松は畠中の裏道を辿《たど》つた。塚窪の坂の下まで行くと、とある農家の前に一人の飴屋《あめや》、面白|可笑《をか》しく唐人笛《たうじんぶえ》を吹立てゝ、幼稚《をさな》い客を呼集めて居る。御得意と見えて、声を揚げて飛んで来る男女《をとこをんな》の少年もあつた――彼処《あすこ》からも、是処《こゝ》からも。あゝ、少年の空想を誘ふやうな飴屋の笛の調子は、どんなに頑是《ぐわんぜ》ないものゝ耳を楽ませるであらう。いや、買ひに集る子供ばかりでは無い、丑松ですら思はず立止つて聞いた。妙な癖で、其笛を聞く度に、丑松は自分の少年時代を思出さずに居られないのである。
何を隠さう――丑松が今指して行く塚窪の家には、幼馴染《をさななじみ》が嫁《かたづ》いて居る。お妻といふのが其女の名である。お妻の生家《さと》は姫子沢に在つて、林檎畠一つ隔《へだ》てゝ、丑松の家の隣に住んだ。丑松がお妻と遊んだのは、九歳《こゝのつ》に成る頃で、まだ瀬川の一家族が移住して来て間も無い当時のことであつた。もと/\お妻の父といふは、上田の在から養子に来た男、根が苦労人ではあり、他所者《よそもの》でもあり、するところからして、自然《おのづ》と瀬川の家にも後見《うしろみ》と成つて呉れた。それに、丑松を贔顧《ひいき》にして、伊勢詣《いせまうで》に出掛けた帰途《かへりみち》なぞには、必ず何か買つて来て呉れるといふ風であつた。斯う
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