もし枯れもする杜《もり》の呼吸、其間にはまた暗影と光と熱とを帯びた雲の群の出没するのも目に注《つ》いて、『平野は自然の静息、山嶽は自然の活動』といふ言葉の意味も今更のやうに思ひあたる。一概に平凡と擯斥《しりぞ》けた信州の風景は、『山気』を通して反《かへ》つて深く面白く眺められるやうになつた。
斯ういふ蓮太郎の観察は、山を愛する丑松の心を悦《よろこ》ばせた。其日は西の空が開けて、飛騨《ひだ》の山脈を望むことも出来たのである。見れば斯の大谿谷のかなたに当つて、畳み重なる山と山との上に、更に遠く連なる一列の白壁。今年の雪も早や幾度か降り添ふたのであらう。その山々は午後の日をうけて、青空に映り輝いて、殆んど人の気魄《たましひ》を奪ふばかりの勢であつた。活々《いき/\》とした力のある山塊の輪郭と、深い鉛紫《えんし》の色を帯びた谷々の影とは、一層その眺望に崇高な趣を添へる。針木嶺、白馬嶽、焼嶽、鎗が嶽、または乗鞍嶽《のりくらがたけ》、蝶が嶽、其他多くの山獄の峻《けは》しく競《きそ》ひ立つのは其処だ。梓川、大白川なぞの源を発するのは其処だ。雷鳥の寂しく飛びかふといふのは其処だ。氷河の跡の見られるといふのは其処だ。千古人跡の到らないといふのは其処だ。あゝ、無言にして聳《そび》え立つ飛騨の山脈の姿、長久《とこしへ》に荘厳《おごそか》な自然の殿堂――見れば見る程、蓮太郎も、丑松も、高い気象を感ぜずには居られなかつたのである。殊に其日の空気はすこし黄に濁つて、十一月上旬の光に交つて、斯の広濶《ひろ》い谿谷《たにあひ》を盛んに煙《けぶ》るやうに見せた。長い間、二人は眺め入つた。眺め入り乍ら、互に山のことを語り合つた。
(四)
噫《あゝ》。幾度丑松は蓮太郎に自分の素性を話さうと思つたらう。昨夜なぞは遅くまで洋燈《ランプ》の下で其事を考へて、もし先輩と二人ぎりに成るやうな場合があつたなら、彼様《あゝ》言はうか、此様《かう》言はうかと、さま/″\の想像に耽《ふけ》つたのであつた。蓮太郎は今、丑松の傍に居る。さて逢《あ》つて見ると、言出しかねるもので、風景なぞのことばかり話して、肝心の思ふことは未《ま》だ話さなかつた。丑松は既に種々《いろ/\》なことを話して居乍ら、未だ何《なんに》も蓮太郎に話さないやうな気がした。
夕飯の用意を命じて置いて来たからと、蓮太郎に誘はれて、丑松は一緒に根津の旅舎《やどや》の方へ出掛けて行つた。道々丑松は話しかけて、正直なところを言はう/\として見た。それを言つたら、自分の真情が深く先輩の心に通ずるであらう、自分は一層《もつと》先輩に親むことが出来るであらう、斯う考へて、其を言はうとして、言ひ得ないで、時々立止つては溜息を吐くのであつた。秘密――生死《いきしに》にも関はる真実《ほんたう》の秘密――仮令《たとひ》先方《さき》が同じ素性であるとは言ひ乍ら、奈何《どう》して左様《さう》容易《たやす》く告白《うちあ》けることが出来よう。言はうとしては躊躇《ちうちよ》した。躊躇しては自分で自分を責めた。丑松は心の内部《なか》で、懼《おそ》れたり、迷つたり、悶えたりしたのである。
軈《やが》て二人は根津の西町の町はづれへ出た。石地蔵の佇立《たゝず》むあたりは、向町《むかひまち》――所謂《いはゆる》穢多町で、草葺《くさぶき》の屋造《やね》が日あたりの好い傾斜に添ふて不規則に並んで居る。中にも人目を引く城のやうな一郭《ひとかまへ》、白壁高く日に輝くは、例の六左衛門の住家《すみか》と知れた。農業と麻裏製造《あさうらづくり》とは、斯《こ》の部落に住む人々の職業で、彼の小諸の穢多町のやうに、靴、三味線、太鼓、其他獣皮に関したものの製造、または斃馬《へいば》の売買なぞに従事して居るやうな手合は一人も無い。麻裏はどの穢多の家《うち》でも作るので、『中抜き』と言つて、草履の表に用《つか》ふ美しい藁がところ/″\の垣根の傍に乾してあつた。丑松は其を見ると、瀬川の家の昔を思出した。小諸時代を思出した。亡くなつた母も、今の叔母も、克《よ》く其の『中抜き』を編んで居たことを思出した。自分も亦《ま》た少年の頃には、戸隠から来る『かはそ』(草履裏の麻)なぞを玩具《おもちや》にして、父の傍で麻裏造る真似をして遊んだことを思出した。
六左衛門のことは、其時、二人の噂《うはさ》に上つた。蓮太郎はしきりに彼の穢多の性質や行為《おこなひ》やらを問ひ尋ねる。聞かれた丑松とても委敷《くはしく》は無いが、知つて居る丈《だけ》を話したのは斯うであつた。六左衛門の富は彼が一代に作つたもの。今日のやうな俄分限者《にはかぶげんしや》と成つたに就いては、甚《はなは》だ悪しざまに罵るものがある。慾深い上に、虚栄心の強い男で、金の力で成ることなら奈何《どん》な事でもして、
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