床から跳起《はねお》きて、一旦細くした洋燈《ランプ》を復た明くしながら、蓮太郎に宛てた手紙を書いて見た。今はこの病気見舞すら人目を憚《はゞか》つて認《したゝ》める程に用心したのである。時々丑松は書きかけた筆を止めて、洋燈の光に友達の寝顔を窺つて見ると、銀之助は死んだ魚のやうに大な口を開いて、前後も知らず熟睡して居た。
全く丑松は蓮太郎を知らないでも無かつた。人の紹介で逢つて見たことも有るし、今歳《ことし》になつて二三度手紙の往復《とりやり》もしたので、幾分《いくら》か互ひの心情《こゝろもち》は通じた。然し、蓮太郎は篤志な知己として丑松のことを考へて居るばかり、同じ素性の青年とは夢にも思はなかつた。丑松もまた、其秘密ばかりは言ふことを躊躇《ちうちよ》して居る。だから何となく奥歯に物が挾まつて居るやうで、其晩書いた丑松の手紙にも十分に思つたことが表れない。何故《なぜ》是程《これほど》に慕つて居るか、其さへ書けば、他の事はもう書かなくても済《す》む。あゝ――書けるものなら丑松も書く。其を書けないといふのは、丑松の弱点で、とう/\普通の病気見舞と同じものに成つて了つた。『東京にて、猪子蓮太郎先生、瀬川丑松より』と認《したゝ》め終つた時は、深く/\良心《こゝろ》を偽《いつは》るやうな気がした。筆を投《なげう》つて、嘆息して、復《ま》た冷い寝床に潜り込んだが、少許《すこし》とろ/\としたかと思ふと、直に恐しい夢ばかり見つゞけたのである。
翌朝のことであつた。蓮華寺の庄馬鹿が学校へやつて来て、是非丑松に逢ひたいと言ふ。『何の用か』を小使に言はせると、『御目に懸つて御渡ししたいものが御座《ござい》ます』とか。出て行つて玄関のところで逢へば、庄馬鹿は一通の電報を手渡しした。不取敢《とりあへず》開封して読下して見ると、片仮名の文字も簡短に、父の死去したといふ報知《しらせ》が書いてあつた。突然のことに驚いて了つて、半信半疑で繰返した。確かに死去の報知には相違なかつた。発信人は根津の叔父。『直ぐ帰れ』としてある。
『それはどうも飛んだことで、嘸《さぞ》御力落しで御座ませう――はい、早速帰りまして、奥様にも申上げまするで御座ます。』
斯《か》う庄馬鹿が言つた。小児《こども》のやうに死を畏れるといふ様子は、其|愚《おろか》しい目付に顕《あら》はれるのであつた。
丑松の父といふは、日頃極めて壮健な方で、激烈《はげ》しい気候に遭遇《であ》つても風邪一つ引かず、巌畳《がんでふ》な体躯《からだ》は反《かへ》つて壮夫《わかもの》を凌《しの》ぐ程の隠居であつた。牧夫の生涯《しやうがい》といへばいかにも面白さうに聞えるが、其実普通の人に堪へられる職業では無いのであつて、就中《わけても》西乃入の牧場の牛飼などと来ては、『彼《あ》の隠居だから勤まる』と人にも言はれる程。牛の性質を克《よ》く暗記して居るといふ丈では、所詮《しよせん》あの烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の深い谿谷《たにあひ》に長く住むことは出来ない。気候には堪へられても、寂寥《さびしさ》には堪へられない。温暖《あたゝか》い日の下に産れて忍耐の力に乏しい南国の人なぞは、到底|斯《か》ういふ山の上の牧夫に適しないのである。そこはそれ、北部の信州人、殊に丑松の父は素朴な、勤勉な、剛健な気象で、労苦を労苦とも思はない上に、別に人の知らない隠遁の理由をも持つて居た。思慮の深い父は丑松に一生の戒を教へたばかりで無く、自分も亦た成るべく人目につかないやうに、と斯う用心して、子の出世を祈るより外にもう希望《のぞみ》もなければ慰藉《なぐさめ》もないのであつた。丑松のため――其を思ふ親の情からして、人里遠い山の奥に浮世を離れ、朝夕炭焼の煙りを眺め、牛の群を相手に寂しい月日を送つて来たので。月々丑松から送る金の中から好《すき》な地酒を買ふといふことが、何よりの斯《この》牧夫のたのしみ。労苦も寂寥《さびしさ》も其の為に忘れると言つて居た。斯ういふ阿爺《おやぢ》が――まあ、鋼鉄のやうに強いとも言ひたい阿爺が、病気の前触《まへぶれ》も無くて、突然死去したと言つてよこしたとは。
電報は簡短で亡くなつた事情も解らなかつた。それに、父が牧場の番小屋に上るのは、春雪の溶け初める頃で、また谷々が白く降り埋《うづ》められる頃になると、根津村の家へ下りて来る毎年《まいとし》の習慣である。もうそろ/\冬籠りの時節。考へて見れば、亡くなつた場処は、西乃入か、根津か、其すら斯電報では解らない。
しかし、其時になつて、丑松は昨夜《ゆうべ》の出来事を思出した。あの父の呼声を思出した。あの呼声が次第に遠く細くなつて、別離《わかれ》を告げるやうに聞えたことを思出した。
斯の電報を銀之助に見せた時は、流石《さすが》の友達も意外なといふ感想《かんじ》に打た
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