を呼ぶやうに聞えた。目をあげて見れば、空とても矢張《やはり》地の上と同じやうに、音も無ければ声も無い。風は死に、鳥は隠れ、清《すゞ》しい星の姿ところ/″\。銀河の光は薄い煙のやうに遠く荘厳《おごそか》な天を流れて、深大な感動を人の心に与へる。さすがに幽《かすか》な反射はあつて、仰げば仰ぐほど暗い藍色の海のやうなは、そこに他界を望むやうな心地もせらるゝのであつた。声――あの父の呼ぶ声は、斯の星夜の寒空を伝つて、丑松の耳の底に響いて来るかのやう。子の霊魂《たましひ》を捜すやうな親の声は確かに聞えた。しかし其意味は。斯う思ひ迷つて、丑松はあちこち/\と庭の内を歩いて見た。
あゝ、何を其様《そんな》に呼ぶのであらう。丑松は一生の戒を思出した。あの父の言葉を思出した。自分の精神の内部《なか》の苦痛《くるしみ》が、子を思ふ親の情からして、自然と父にも通じたのであらうか。飽くまでも素性を隠せ、今日までの親の苦心を忘れるな、といふ意味であらうか。それで彼の牧場の番小屋を出て、自分のことを思ひ乍ら呼ぶ其声が谿谷《たに》から谿谷へ響いて居るのであらうか。それとも、また、自分の心の迷ひであらうか。といろ/\に想像して見て、終《しまひ》には恐怖《おそれ》と疑心《うたがひ》とで夢中になつて、『阿爺《おとつ》さん、阿爺さん。』と自分の方から目的《あてど》もなく呼び返した。
『やあ、君は其処に居たのか。』
と声を掛けて近《ちかづ》いたのは銀之助。つゞいて敬之進も。二人はしきりに手提洋燈《てさげランプ》をさしつけて、先づ丑松の顔を調べ、身の周囲《まはり》を調べ、それから闇を窺《うかゞ》ふやうにして見て、さて丑松からまた/\父の呼声のしたことを聞取つた。
『土屋君、それ見たまへ。』
敬之進は寒さと恐怖《おそれ》とで慄へ乍ら言つた。銀之助は笑つて、
『どうしても其様《そん》なことは理窟に合はん。必定《きつと》神経の故《せゐ》だ。一体、瀬川君は妙に猜疑深《うたがひぶか》く成つた。だから其様《そん》な下らないものが耳に聞えるんだ。』
『左様《さう》かなあ、神経の故《せゐ》かなあ。』斯う丑松は反省するやうな調子で言つた。
『だつて君、考へて見たまへ。形の無いところに形が見えたり、声の無いところに声が聞えたりするなんて、それそこが君の猜疑深《うたがひぶか》く成つた証拠さ。声も、形も、其は皆な君が自分の疑心から産出《うみだ》した幻だ。』
『幻?』
『所謂《いはゆる》疑心暗鬼といふ奴だ。耳に聞える幻――といふのも少許《すこし》変な言葉だがね、まあ左様《さう》いふことも言へるとしたら、其が今夜君の聞いたやうな声なんだ。』
『あるひは左様《さう》かも知れない。』
暫時《しばらく》、三人は無言になつた。天も地も※[#「門<貝」、第4水準2−91−57]《しん》として、声が無かつた。急に是の星夜の寂寞《せきばく》を破つて、父の呼ぶ声が丑松の耳の底に響いたのである。
『丑松、丑松。』
と次第に幽《かすか》になつて、啼《な》いて空を渡る夜の鳥のやうに、終《しまひ》には遠く細く消えて聞えなくなつて了つた。
『瀬川君。』と銀之助は手提洋燈をさしつけて、顔色を変へた丑松の様子を不思議さうに眺め乍ら、『どうしたい――君は。』
『今、また阿爺《おやぢ》の声がした。』
『今? 何にも聞えやしなかつたぢやないか。』
『ホウ、左様《さう》かねえ。』
『左様かねえもないもんだ。何《なんに》も声なぞは聞えやしないよ。』と言つて、銀之助は敬之進の方へ向いて、『風間さん、奈何《どう》でした――何か貴方には聞えましたか。』
『いゝえ。』と敬之進も力を入れた。
『ホウラ。風間さんにも聞えなければ、僕にも聞えない。聞いたのは、唯君ばかりだ。神経、神経――どうしても其に相違ない。』
斯う言つて、軈て銀之助はあちこちと闇を照らして見た。天は今僅かに星の映る鏡、地は今大な暗い影のやう。一つとして声のありさうなものが、手提洋燈の光に入るでもなかつた。『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑ひ出して、『まあ、僕は耳に聞いたつて信じられない。目に見たつて信じられない。手に取つて、触《さは》つて見て、それからでなければ其様《そん》なことは信じられない。いよ/\こりやあ、僕の観察の通りだ。生理的に其様な声が聞えたんだ。はゝゝゝゝ。それはさうと、馬鹿に寒く成つて来たぢやないか。僕は最早《もう》斯うして立つて居られなくなつた――行かう。』
(三)
其晩、寝床へ入つてからも、丑松は父と先輩とのことを考へて、寝られなかつた。銀之助は直にもう高鼾《たかいびき》。どんなに丑松は傍に枕を並べて居る友達の寝顔を熟視《みまも》つて、その平穏《おだやか》な、安静《しづか》な睡眠《ねむり》を羨んだらう。夜も更《ふ》けた頃、むつくと寝
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